RagnarokOnline ...longing/love
06.足音
進む時計の針 迫るのは運命の日
シャルスは居間のソファに座って膝に載せた本の頁をめくっていた。
読んではいない。見ているだけである。そこに書いてある言葉のほとんどを、彼は理解することはできないからだ。
相当な厚みを持った、黒い革張りの大きな本の背には、金の箔で美しい文字の題が記されている。それは聖書だった。それも一般庶民向けに通用語で書かれた平易なものではなく、聖職者のための教典だ。シャルスは並以上に賢くはあったが、神聖言語を習ったことはない。従ってその教典は彼にとっては聞いたこともない外国語で書かれているのと変わらない代物で、当然ながら読むことはできないのだ。
読めもしない本を開くのは相応の理由がある。細かな字が並んだ重たい聖書の厚みの半分近くが、精緻で美しい挿絵なのである。見ているだけで良かった。挿絵を眺めていれば、夜毎語ってもらった神話の物語が優しい声と共に頭に浮かんで、退屈はしなかった。
その本に並んでいる文字の羅列の中で、唯一彼が理解できるのは、裏表紙を開いたところにあるたった三行の手書きの文字だけだ。
『我が愛し子に幸せあれ』
一行目にはそう書いてあるのだと、教えてくれたのはノイエだ。そのすぐ下にはノイエ自身の名前が書いてある。その聖書は元はノイエのものだった。神学校に入学するときに、父、アーネストから送られたものだという。本の最後に言葉と名前を書き入れたのもアーネストである。シャルスは最後の頁に並んだ文字を見ると、昔自分の様子を時折見に来たアーネストのことを思い出す。朧気ではあるが、それでも自分自身の父親よりははっきりと脳裏に思い描くことが出来た。
その優しげに笑う背の高い男を、自分の父親だと間違えていたころもあったように思う。何故そんな勘違いをしたのかと言えば、それは単純にアーネストのほうが、実の父よりも遙かにシャルスの元を訪れる回数が多かったからだ。
おまけにシャルスの父という人間は、来るたび顔をしかめてこの場に立っているのも不愉快だと言わんばかりの表情だった。そして誰もそれがお前の父親だとはシャルスに言わなかった。父と思えというのが無理な話なのだ。母はシャルスに優しかったからなおのこと、親は子供に優しいものだという当たり前の認識をシャルスも持っており、だからあの不機嫌そうな男を父親とみなさなかった。
アーネストの優しい声を思い出すたび、少し胸が痛む。だがそれは自分の実の父親と比較してのことではない。
自身の父が自分を疎んじていることはシャルスはもうとうに知っていたけれど、だから父親を恨むとか憎むとかそういうことは無かった。仮にも父親という存在に、愛されたいという感情が涌かないのは、子供を愛するどころか徹頭徹尾疎んじる父親と同等に、薄情なのかも知れない。しかしほとんど会ったこともなく言葉を交わしたこともないのなら他人と変わるまい。ただでさえ不吉と言われる双子、それもよくない星見がされたのなら無理もなかろうと、この地下に送ったことさえ仕方のないことだろうと、まるで他人事のようにシャルスは思っていた。
それはシャルスが人並み以上に聞き分けの良い子供だったからかと言えば、半分は是で、半分は否だろう。彼は父親から欠片の愛情も与えられなかったが、それを補って余りあるほど優しい手を知っていた。その優しさだけで十分満たされたから、それ以上を彼は望まなかった。
胸が痛むのは、自分には居ない優しい父親を羨むからではないのだ。
何もわからなかった幼い自分にアーネストが笑いかけて抱き上げてくれたのをシャルスは覚えている。縁もゆかりも無いとまでは言えなくとも、他人の、それも不吉な預言の為された子供に、あんなにも優しく笑うのならば、自分自身の子供はどんなに可愛がっていることだろう。その子供とはアナイスであり、ダナエであり、シュバルツであり、ヴェルセンであり、そしてノイエリーフェである。五人の子供はきっと彼の代え難い宝物に違いない。幸せあれといついかなる時でも願うほど。
その優しい父親から子供の一人を遠ざけたのは自分であると、シャルスは自覚していた。だからアーネストの心からの祈りを目にするたびに少し胸が痛む。アーネストへの直接の後ろめたさと、それを自覚して尚、こんな地下まで付き合うことはないのだとノイエに言えない自分の弱さが彼の心を苛んだ。
最後の頁を開く。黒のインクで記された文字の三行目は、他の二行と筆跡が違う。その三行目をゆっくりと指でなぞる。書き足したのはノイエで、書いてあるのはシャルスの名前だ。今はこの聖書はシャルスのものなのである。
シャルスがノイエからこれを譲られたのは数年前、この地下に来た後だ。元々神話の物語が好きで寝る前などにはしょっちゅうせがんでいた。そこへもってきて、こちらに来てからというもの、ノイエが所用で実家に戻るときには必ずこの聖書を貸してくれとシャルスが言うので、ノイエはその聖書をシャルスに譲り渡してしまったのだ。
そんなに気に入っているのならあなたにあげます、大事にしてくださいねと、ノイエは最後の頁、自分の名前の下にシャルスの名を書き入れて渡した。勿論シャルスはその分厚い重い本をとても大事にしている。だが普段は本棚から出してくることはない。彼がこれを開くのは、ノイエが不在のときだけだ。
今日はここにノイエは居ない。二日ほど前から、国へ帰っていた。帰ってくるのはしばらく先のことだ。いつもよりも静かな部屋。柔らかいソファは一人では広すぎる。
聖書には小さな紫の飾りが付けられた銀の栞が挟まっていた。それはノイエの兄、アナイスが、いつだったか手紙と一緒に寄越したものだった。二人に一枚ずつと、手紙には書いてあった。羽や花をかたどった細かな模様を切り抜いた銀細工の栞。一方には紫の、一方には青の石が、細い銀鎖で下がっていた。
一目見ればアナイスがそれぞれをどちらに贈るつもりのものだったのか、誰でもすぐに見て取っただろう。だがシャルスは彼に贈られるはずだっただろうものではなく、もう一方を手に取った。ノイエは不思議そうに首を傾げながら、しかし何も異を唱えずに残った方を取った。
栞に繋がる銀鎖に下がった貴石。紫はノイエ、青はシャルスの、瞳と同じ色の石だ。シャルスは自分よりもノイエの瞳と同じ色のものが欲しかった。世界で一番好きな相手の瞳の色、世界で一番好きな色が、欲しかったのだ。
その栞が挟まった頁を開く。しゃらん、と銀鎖が小さく鳴る。静かな部屋にそのさらさらとした音が響いて消えてゆく。
そこには神の一人が描かれていた。バルドルという名前らしい。主神オーディンの息子。光の神。神話でどういう位置を占める存在なのかは余すところ無く知っている。けれどそんなことはどうだっていい。この神の絵があるページばかり開くのはただ一つ、その面差しがほんの少しノイエに似ているからだった。
本当はその髪や目の色はノイエとは違うらしいのだが、白黒の銅版画ではわからない。勝手に鳶色の髪と紫の目を重ねて美しい挿絵を眺める。それで少しは不在の寂しさが紛れた。
ノイエは国王の、つまりはシャルスの父親の聖誕祭に出席するべく国に帰っていた。新年の式典に続く大きな行事である。聖誕祭が終わって一月もすれば、次は皇太子の誕生祝いが控えていた。今年で皇太子は十五、形式上は大人と認められ、正式に王位継承者の座につく。それは王子が生まれた日からずっと国民が待ち望んでいた日であると同時に、長らく二人が待ち続けた日でもあった。
自身の意志と言葉が意味を持つ日。そうして国を捨てると誓えば、シャルスは生まれて初めて、自由に外の世界を歩くことを許される。
彼は知っている。自分を慈しんでくれる優しい人が、どれほどその日を待ち望んでいるか。それでシャルスが幸せになれると信じ、自身の幸せを願うように、いいやそれ以上に、心から願ってくれている。だからシャルスも待っている。その日が来ればきっとノイエは笑うからだ。けれど本当は、シャルスは、心の何処かで、ずっとこのままのほうが良いとすら思っていた。
彼は馬鹿ではなかった。むしろ賢かった。自由とはすなわち別れを意味することも理解していた。いくら末子とはいえ、長兄アナイスをも凌ぐと言われるほどの力を有し、王家に連なる身分であるノイエが、何も持たないただ身一つの人間と在ることなど許されはしまい。それならいっそ、このまま地下で二人いられたら。そう思ってしまう。そしてまた、その望みの後ろ暗さを自覚せずに居られるほどシャルスは厚顔でも無いのが悲しい。
十五年。
物心も付かぬ内から続いた、待つことしかできなかった日々がもうすぐ終わる。
その年月は辛くはなかった。こう言えば人は嘘か強がりだと思うかも知れない。だけど心底、偽り無く、苦痛ではなかった。終わりを惜しんでしまうほど、少なくとも自分は、幸せだったのだ。
挿絵に視線を落とす。厚手の白い紙に描かれた少年はほのかに笑んでいる。指先でゆっくりと紙肌を撫でた。冷たくはないが温かくもない。時計に目をやった。針は正午過ぎを指していた。
式典は明日である。ノイエは今何をしているだろう? 家族と食事だろうか? 離れているのは寂しいが、ノイエは普段滅多と逢えない(そしてそのような状況に置かれざるを得ない元凶は自分である)家族に逢えているのだから、楽しく過ごせていれば良いと、シャルスは思った。
朱い絨毯が端から端まで敷き詰められた長い廊下を、ノイエは心持ち足早に歩いていた。城は広い。部屋をいくつか回るだけで時間を取られる。本当ならもう家に帰って食事の時間だった筈だが、久方ぶりに顔を合わせた皇太子、ユリスファータがなかなかノイエを離してくれなかった。会わなかった数ヶ月の間の出来事を聞き終わって気付いてみればもう昼過ぎだ。
年の殆どを不在にしているノイエは、帰った翌日を挨拶回りに費やす。国王と皇太子は勿論のこと、神学校、騎士団、重臣、官僚詰め所、果ては昔ユリスファータのところに通っていた際に世話になった女官の面々にまで。お忙しいでしょうに私たちのところにまでおいでにならなくてもと、その度に彼女らは言うのだが、普段ご無沙汰していますからとノイエは笑う。
このまま挨拶回りを続けていては、終わる頃には夕方になりそうだ。他のところは午後に回して一旦帰宅するかと考え、階段に足を向けたところだった。
「ノイエリーフェ? 帰ってたのか」
背中から声をかけられた。
振り向いた先には背の高い騎士が屈託の無い笑みを浮かべて手を振っている。
「お久しぶりです、リージェス。元気ですか?」
ノイエも笑い返し、騎士の傍へと歩み寄った。
淡い色の金髪と薄蒼い目に朱のマントが映える、端正な顔立ちの青年である。リージェス=グリッサンドという名の彼は、ノイエの幼馴染みだった。年はリージェスのほうがいくらか上だ。親同士が旧知だったため、幼い頃から兄弟ともどもよく遊んだ。シャルスの元に行くようになって余暇がほとんど無くなってからも、国を離れて数年たった今も付き合いの続く、数少ない友人だった。
「明後日の式典のために一時帰国しました。皆準備に追われているのでしょう? 手伝えなくて申し訳ありません」
「たまに帰ってきたというのにそれだ。気を遣いすぎだろう。家でゆっくりしていれば良いのに」
リージェスは呆れたように笑った。どちらかといえば冷たさを感じさせる、整いすぎといってもいい容貌だが、笑うと少しそれが和らぐ。
「そうもいかないでしょう。ずっと国を空けているのだから、こんなときくらい御挨拶しないと」
肩を竦めるノイエが身につけているのは正装だ。ノイエは正式に国王に謁見するのでも無い限り、それを身につける必要は無い。彼もまた、王族に連なる血筋の者だからだ。しかしノイエは挨拶のときには正装を着込むのが常だった。相手に失礼だからというのだ。誰もそんなふうに受け取りはしないのにと、リージェスは思う。
黒の帽子と外套は、式典礼装ほどではないが、堅苦しく、窮屈そうに見える。勿論採寸して丁度に誂えたものなのだから本当に窮屈なわけではない。しかし、優しげでまだ幼さの残る容貌に、銀糸の刺繍で埋め尽くされた黒の分厚い布地の長衣は、どこか不似合いだと見る者に思わせた。正式に司祭の資格を得て久しい今でも尚。
「次の春で留学は終わりなんだったか。長かったな」
はい、と答えたノイエの笑みは、しかし曖昧だった。その曖昧さに気付かないまま、リージェスは、戻ってくるのを楽しみにしていると笑った。
廊下の向こうの方から響いたのはリージェスを呼ぶ仲間の声だ。リージェスは今行くと返事をし、ああくそ忌々しい、と、騎士にあるまじき台詞を小声で付け加える。それを聞いてノイエは思わず吹き出す。
「貴方に夢中のご令嬢方が聞いたら目を丸くしますよ」
くすくすと笑い、
「昔と変わりませんね」
懐かしそうに、目を細めた。
リージェスは唇を閉じ息を止め、それから、変わらないのはお前のほうだと呟いた。ノイエは、変わりませんかと尋ねようとしてその言葉を飲み込んだ。
さっきとは違う声が、またリージェスを呼ぶ。急ぎらしい。リージェスは顔をしかめ、それじゃあまたゆっくり話でもしよう、と諦めたように言って、今行くと叫び、廊下の向こうへと走り去った。知った顔と知らない顔が行き交う廊下、ノイエは、何人もから向けられる会釈に挨拶を返しながら、リージェスの背中が曲がり角の向こうに消えるまで見送った。
長かったな。
リージェスの言葉を、反芻して、ほんの一瞬目を閉じる。
そうだ、長かった。シャルスが生まれておよそ十五年、出会ってからだけでも十年以上。待った年月は長かった。初めてあの幼子に会ったあの日、自分がそれまで生きてきたよりもまだ長い孤独をこの子は強いられるのだと知ったとき、その日々を確かに長いと思った。過ぎてみれば思いの外短かったように感じられはしても十年という月日はその言葉通り、数字通りの長さでもって過去に横たわっている。
それだけ待ち続けた望んだ日がやっとくるのに。
どうしてだろう? それが怖い。
ただ静かに平穏に進み続けた時計の針、どうして最後まで進んでいくと、信じ切れないのか。
ふいに根拠も無く不安が沸き上がる。その回数が日に日に増えていく。
風が吹いて窓に嵌め込まれた硝子が音を立てた。外に目をやると、晴れた空から雪が舞っていた。寒い筈である。風花とはよく言ったものだ、散り乱れる花片のように、青空を背にして牡丹雪が降る。
あら綺麗、と、通りがかりの女官が感嘆の声を上げた。
言葉のままだ。窓枠に切り取られた雪花舞う青空は美しかった。昔はただ楽しんだその美しさに、言いしれぬ哀しみを覚えるようになったのはいつからか。
そういう他愛ない美しいもので世界は満たされている。それはたとえばほんの少し窓の外に目を向けるだけで、あるいは外に出るだけで、容易く享受することのできるありふれた幸福だ。人が幸福とも思わず手にする当たり前の日常だ。そのほとんど全てを知らずにシャルスは生きてきた。
ノイエは祈る。
ああどうか、どうか、後たった二月なのです、どうか無事に過ぎてください。
そうしたらあの子はやっと謂われのない罰から解放されるのです。
陽の光の下を誰はばかることなく歩く当然の権利を手に入れることができるのです。
それすらもあの子には過ぎた望みだというのなら、あの子は一体、なんの、ために――
その先を、自身の心の内でさえ、ノイエは言葉に出来なかった。心で問うて誰も答えを返さないのは知っている。だけれども問いを形にすれば、是と返ってくる余地を与えるようで、怖ろしい。
式典のために何時にも増して豪奢に飾られた城に、真青の空から雪が降る様は、花散るようでもあり、羽根が舞い落ちるようでもある。白い羽根が城を包む。それはまるでこの国において神にも等しい存在である王の生誕を天が祝福しているかのごとくだ。
そんな大それた祝福など、望まない。
シャルスが生まれたのは早春だ。雪が消え空気が暖かさを増し緑芽吹く、その美しい季節に、明るい陽光の下で、誕生を祝ったことは一度も無かった。何故ならその日は皇太子の聖誕祝典の日でもあるからだ。当然ノイエも列席せねばならない。朝から晩まで、いいやそれどころか前後一週間ほども、シャルスのところへ行くことは叶わない。ノイエが来ない日にシャルスが外へ出ることはけして許されない。だからシャルスの誕生日はいつも、地下に送られる前ですら、北の外れ、僅かな時間しか日の光差し込まぬ薄暗い部屋の中だけで終わったのだ。
ノイエは胸の前で手を組み祈る。聖職者から一般人まで、神に祈るときは大方が両の手指を絡み合わせる。けれどノイエはそうしなかった。子供の手を引くがごとくに、片手でもう一方の手のひらを握りしめていた。
そこに感じるのは自らの体温と、細く冷えやすい骨張った指のやわらかい皮膚だけだ。けれどそこに別のものを探しノイエは強く強く手を掴む。
白亜の城、羽根舞うように白い雪が降る。
数えることもあたわぬほどに、後から後から終わりを知らず祝福が舞い下りる。
そのひとかけらさえ望みはしないから
――どうか、私たちに あの子の生を祝うことを許してください。
心の全てを傾けて、ノイエは祈った。
祈る先が何処にあるのか。その答えは、何処にもない。
華やかな式典は例年通り滞りなく終了した。
そしてノイエは式典のすぐ後から、自室のベッドで伏せっていた。
具合を悪くするのはいつものことだが、ここまで高い熱を出すのは久しぶりのことだ。普段は少々体調が悪くても早く地下に戻ると言って引かないノイエも、父母や兄弟たちの、完全に回復するまでは寝ていろという言葉に従った。
ノイエの賢さは、誰もが認める。そして皆その優秀さに目を奪われがちだが、頭が回るのは何も勉学だけではない。相手の心情を慮ることにもまた、長けていた。
彼は知っている。自分が家族に愛されていることも、友人が自分を思いやってくれていることも。
幸せでいる、元気でいるというのは、何も自分のためばかりに大切なのではない。愛するものが不幸せならば心を痛めるのは真っ当な性根の人間にとって当たり前のことだ。自分を愛してくれる人間がいるのなら、その相手のためにも、息災であらねばならない。
ノイエは、知っているのだ。誰かの愛情に対する最低限の返礼を、自分は十分に満たせていないことを。
たとえどんな理由あれ、家族と離れ、一筋の陽光も差し込む余地のない地下深くで暮らし、たまに帰ればすぐに体調を崩して寝込んでしまうという自分の行いが、どれほど皆の心配の種になっているか、ノイエは痛いほどよくわかっている。だから今度ばかりは、家族がもう少しゆっくりしていけというのを振り切って戻ることはできなかった。
熱が意識を鈍らせる。柔らかいベッドに横たわり、気怠い熱の塊になった頭を枕の中程にまで沈み込ませ目を閉じていると、今自分が意識を保っているのか、それとも眠っているのかさえ判然としない。その内自分がいまどこにいてどういう状況に置かれているのかも思い出せなくなってくる。
ここはどこだろう。頬に何となく太陽の光を感じる。ああそれならばきっと国の自室なのだ。だってあの地下はいつも薄暗くて蒼い光は一片のぬくもりも持ってはいない。あたたかいのならここは地下ではないのだろう。
回りが明るいのが、瞼を透かしてわかる。その光の強さが、なお、ここは地上だと教える。もしここがあの暗い地の底ならば寝ているわけにはいかない。あの子がいる。心配するに違いない。真っ直ぐ身体を起こしていなければ。そうでなければあの子は自分のせいでと気に病むのだから。でも今はいつだっただろう。ノイエの惚けた意識は時間を彷徨う。
いまあの子はどこにいるのだったか。地下。それとも城の隅っこ? 何も隠さず全てを拒む壁に阻まれた、高くそびえる厳めしい石造りの塔。来る日も来る日も北の外れ歩いて通った――
昨夜から降り続いた雪は、まだ足りぬと言わんばかりに晴天から舞っていた。
あたりはもうすっかり銀世界で、すっぽりと分厚く雪を被っている。誰も訪れぬ外れの塔の回りは、アナイスとノイエがやって来たときの二組の足跡以外は積もったときのままだ。ふわふわと柔らかな様子は、見ようによっては暖かそうでさえある。
「これはなあに?」
小さな子供は瞼を一杯に見開き大きな目をきらきらと輝かせて尋ねた。
「雪といいます。雨は知っているでしょう? あのお空から降ってくる雫が、あんまり寒いから、ここまで降りてくる前に凍ってしまうのですよ」
ノイエは白く細く息を吐きながらゆっくりと答えてやった。幼い頭はその返答をどれだけ理解することができたのか。賢い子である。おおむね飲み込んだと見えた。その瞳の輝きは、単なる好奇心から、自分の質問にいとも容易く答えを寄越す相手への感嘆と尊敬と憧れの表れへと、色を変えた。
やわらかい? さわってだいじょうぶ? ノイエの服の裾を掴んだままシャルスは雪に覆われた庭を指さす。
ここの雪は誰も踏み固めていないから柔らかいですよ。けれど冷たいですからね、そのまま触っては駄目です。ノイエは優しい笑みを浮かべ、自分の上着を握り締めている子供の手を取った。
はめてやったのはぴったりの大きさの綺麗な蒼い手袋だ。細い毛糸で編まれたそれは、シャルスの片目と同じ色をしている。蒼一色に見えて、水を含ませた紙にいくつもの顔料を滲ませたごとく、微妙に色が変化しているのが美しい。
生まれて初めてはめてもらった手袋だ。シャルスはほんの少しの間、きょとんとしてそれを見つめた。それから満面の笑みを浮かべた。ぼくの? 嬉しそうに言う子供に、ノイエは笑って頷いてやる。ほら、これで大丈夫。好きなだけ遊んでいらっしゃい。でもお庭の中だけね。そう言ってノイエが背中をとんと軽く押してやると、シャルスはきゃあと歓声を上げて雪の中に飛び込んだ。
降っては止んで、降っては止んで。ノイエは空を見上げた。風花というやつだ。晴れた空から降る雪である。雨や雪を降らすのは雲のはずで、それならば青空のどこからこの雪は生まれてくるのだろう。山に積もった雪が強い風に散らされて飛んでくるのだということは知っている。けれどなお何故と問いたくなるのは、晴天の真ん中で舞う真白な雪が美しく、その美しさに意味を求めたくなるからだ。美しいものが今、あの子の上にも等しく降り注ぐことのできる今、空から舞い落ちてくることに、理由を見出したいからだ。
雪が降る。ノイエの髪と肩をうっすらと白く覆い始めた雪を、側に立っていたアナイスは払った。私が見ているから、お前は中に入っていなさいとアナイスは言ったが、ノイエは首を横に振った。もう少し。細い声に、アナイスは異を唱えようとして止めた。
この冬一番の積雪である。北の外れのこの塔の、まさに入り口の手前まで、誰一人の足跡もついてはいなかった。当然の話である。彼らの父、アーネストの結界が、ここから全ての人間を遠ざける。誰もここには入れない。だから誰の足跡もついていないのだと――終わらせてしまえない。
誰もここには入れない。けれどその真ん中にそびえる古い塔には幼い子供が住んでいる。
ノイエは自分が同じくらいの年だったころに雪が積もった日のことを思い出す。しんと静かな朝、張りつめた冷たい空気をものともせずに庭に飛び出していった二人の兄。子供っぽいと笑いながら自分もついていった姉。お前はすぐ風邪を引くからしっかり暖かくしてから出なさいと、庭を見つめてそわそわしている自分に上着を着せマフラーを巻いて手を引いてくれた長兄。
庭を厚く覆うまっさらの雪を一歩ずつ踏みしめるのが楽しかった。沈み込む足は雪に埋もれて感覚が無くなるほど冷えたけど、手袋をしていても手はかじかんでじんじんと痛んだけれど、自分の背丈よりずっと大きい雪だるまを兄姉達と作ったのがとてもとても楽しかった。子供なんてそんなものではないのか。大人が寒いと敬遠する細かな白い氷の山は子供にとっては魅力的な遊び場だ。雪の朝、厚く真っ白に覆われた庭は瞬く間に大小の足跡だらけになった。昼近くなったころにはリージェスとその妹もやってきた。家族全員と同じ数の雪だるまが並び、一つ一つ顔が付けられ帽子が被せられた。大人しいノイエでさえ笑い声を上げて庭中を走り回ったのだ。
しんとした、人の気配のない、足跡の一つも残らない庭が、だから哀しかった。
雪にはしゃいで外に出ることも許されないのは何故。いたずらや我が儘で父母を兄を困らせる自分たちでも何の咎めも無く許されることがどうしてこの素直な子供には罪なのか。その問いに対し、そう生まれついたからだという答えはあんまりだ。しかしそれ以外に何か他の答えがあるだろうか。
雪が止んだ。澄み渡った青空が覆う庭にシャルスの明るい声が響く。雪を踏みしめる甲高い音が近づいてくる。はっとしてノイエは顔を上げた。いつの間にか下を向いていた視線が元に戻る。
「ほら見て、つくったの」
雪につまづきながらおぼつかない足取りで駆け寄ってきた小さな子供の小さな手には、少しいびつな雪のかたまりが載っていた。真っ赤な南天の実が二つ、常緑の葉が二枚。けれどノイエが驚いたのは教えてもいない雪兎をシャルスが作ってきたからではない。
雪兎を載せた両の手のひらは手袋をしていなかった。さぞ冷たいだろう、指先と言わず真っ赤になっている。
「手袋は、どうしたの」
ノイエは尋ねた。責める色は無い。答えが返ってくるまでもなく、失くしてしまったのだろうと思った。雪を丸めたり固めたりしている内にはまりこんですっぽ抜けたのに、夢中で遊んでいて気付かなかったとか、そんなところだろう。小さな子供にはありがちだ。また新しいものを持ってくればいいだけの話である。
シャルスはもごもごと口を動かしているがなかなか答えない。もらったその日に無くしたとは言いづらいのに違いない。
まだ遊びたいだろうけれど手袋無しで雪に触らせ続けるわけにもゆかない。少し大きいが自分のを貸してやろうか。シャルスにはめた毛糸の手袋と違って、柔らかい皮の手袋で、留め具がついている。ベルトをきつめに止めればよかろう。そう考えて、ノイエは自分の手袋を外そうとした。
「えっとねえ、えっと、てぶくろはね」
怒られると思っているのか。少し視線を泳がせながら、シャルスがやっと口を開いた。不安そうだ。失くしたことは横に置いておくとしても、雪は冷たいから直接触ってはいけないと言ってある。それに従わなかったのだから叱られても不思議はないのだが。怒ってるんじゃないのですよと言いかけたノイエよりも先に、シャルスは言葉の続きを口にした。
「ポケットに入れたの」
ノイエの手が止まる。失くしたのではなかったの。それならどうしてはめていないの? 冷たいでしょうに。きょとんとしているノイエに、シャルスは一生懸命説明する。
「あのね、雪、さわったら水になったの。てぶくろぬれちゃうからポケットにしまったの。せっかくノイエがくれたのによごれちゃう」
手には雪のうさぎが載っているので引っ込めるわけにもいかない。困ったように眉をへの字にしたシャルスの手の上から、ノイエはそっと雪兎を持ち上げて、壊してしまわないように大切に、雪の積もった地面の上に置いた。自分の手袋を取りながら立ち上がりシャルスの手に目を遣る。雪兎で隠れていた手のひらは指先と同じように真っ赤だ。今更背中に隠すこともできず手持ち無沙汰に開いては閉じる手を、ノイエは自分の手のひらで包み込んだ。
「手袋は手のひらを冷たいものから守るのがお仕事なのだから濡れてもいいのですよ。ポケットに入れたままではお仕事ができません。使ってあげないと。もし汚れて洗っても取れなくなってしまったら、また新しいのを持ってきますからね」
優しい声でノイエが言い含めるのにシャルスはこくりとうなずき、ぽやんとした瞳でノイエの顔と手を見比べていたが、はっとして目を見開いたかと思うと、さっきよりも傾いたへの字に眉を下げた。もぞもぞと、ノイエの手の中でシャルスの一回り小さな手が動く。
「ノイエのおててがつめたくなっちゃうよ」
困ったようにシャルスは言ったけれど、
「私は雪にも触らずにずっと暖かくしていたのだから平気ですよ」
ノイエが笑うので、安心したシャルスも笑顔になった。
後ろで兄が渋い顔をしていることを、目を向けずともノイエは知っている。知らない振りをして何事もないかのように笑う。苦々しく思っても今それを咎めることができないのを知っている。まるで息をするように嘘を吐けるようになった。それを兄たちが悲しんでいることも知っている。詫びれば余計に悲しませることも知っているから黙って笑う。冷え易く、直ぐに霜焼けを作って、酷ければ皮膚が崩れる脆い指。冬に外に出るときは手袋は外すなと医者は言った。年々身体が弱くなってゆく。生来乏しい体力を、重ねる無理が削ってゆく。知っている。ただ笑う。
「ノイエのおててはあったかいね!」
シャルスは嬉しそうにはしゃぎ、その後にこう付け加えた。
魔法みたいね、と。
雪に凍り付く冷たい空気を吸ったときよりもぎゅうと肺が縮む。違う。締め付けられているのは肺ではなく心だった。
魔法ではないの、そんな大層なものではけしてない、これは体温だ。魔法など使えなくとも人でなくとも生き物であれば何であれ生きている限り例外なくその身に包み込む、命が命であるための、ただの副産物。親から、兄弟から、友人から恋人から、まるで息するのと同じように与えられる、ありふれたぬくもり。同じ年頃の自分は父母や兄姉の手のあたたかさを心から愛していたけれど、魔法だなんて思いはしなかった。だってそれはあまりにも当たり前のものだったから。
無邪気に笑う子供にノイエは穏やかに笑いかける。その表情を作る薄皮一枚の下で喉が痛い。こぼれそうになるのは涙だ。けれどノイエは笑う。泣いてしまいたい衝動と同じかそれ以上の強さで笑んだ唇を支える。ぬくもりの全てを移さんばかりに、冷たい手に細い指を絡ませて。そして願う。
どうか笑っていて 今のまま 笑うこと忘れないで
――ひたすらに、願う。
本当に叶って欲しいことを願うとき、声に出さなくなった。祈る先は神ではなくなった。
届くか知れないどころか届く場所があるかもわからないでただ願う。
指先が冷えていくのがわかってもノイエは小さな手を離さない。何もこのことだけではない。この子供を慈しみ続けるために自分は人が犠牲と呼ぶようなものを払わなければならない。自分だけではなく自分の愛する家族がそれを目の当たりにしながら心を痛める。シャルスとてもう少し年がいって物事を理解するようになれば、ノイエが口を開かずとも薄々は勘づくだろう。賢い子供だ。優しい子供だ、平静ではいられなかろう。ノイエは馬鹿ではない。全部知っている。それなのに手を離せないのは離してしまうほうが辛いからだ。そこにさらなる理由などない。もし理由が在るのならきっともっと平穏な道を往ける。
ごめんなさいといつも心でだけ謝っている。嘘を吐き知らない振りをして笑うことに呵責を感じても足を止めることができない。ならば許しを乞う資格さえ無いのだと、自身もまだ年端ゆかぬ子供であるにも関わらず、ノイエは自分を戒める。だがやはりまだ子供である。そうやって一人立とうとすればするほど大人達がその不憫を悲しむことに思い至らない。
手が冷えてゆく。まだシャルスの手は冷たい。きっと遊び始めてすぐに手袋を取ってしまったのだろう。ノイエはかがみ込み、シャルスの手を自分の頬に当てて手で覆った。同じ高さになった色違いの綺麗な目。あったかいねと繰り返し笑う素直な子。まだ何も知らないからこそ笑っていられるのだろうか。
頬笑み返しながらノイエは祈り願う。神ではない何かに。
寒いなら こんなものいくらでもわけてあげる
全部全部あげてしまってもいい
だから
この世界を、あなたに理不尽を科すこの世界を、どうか呪わないで
ずっとそうやって笑って
やさしいあなたのままでいて
呪って当然だとノイエは思うから、その願いは悲しい。
シャルスは何か罪を犯したか? 否だ。双子の片割れとして生まれてきたというだけで一人の日々を強いた王を、いわば神を、引いては世界を、恨み呪わぬのは奇跡に思えた。だから王が与えた処遇にはノイエもまた疑問を払拭できずにいる。わざわざ堕ちてしまえと奈落を指さすようではないか。普通に育てていれば、あるいはただの子供のまま何も知らずに慎ましく一生を終えたかもしれないのに。
わからない。けれど従うしかないのなら、せめて自由許されるその日に、まだこの子が人から愛される、そして人を愛することのできる人間であるようにと、ノイエは願う。その佑けになるのなら何でもしよう。
やっといつものようにあたたかくなった小さな手に、ノイエは自分の手袋をはめてやった。ポケットに入れたという青い手袋を出せとはあえて言わなかった。今度は外してはいけませんよという言葉に、シャルスは神妙に頷く。ノイエの革手袋をはめたために一回り大きく見える手をひとしきり握って開いて、それからシャルスは、もういっこうさぎさん作ってくると、雪の庭に駆けていった。
南天の木が植わっているのは庭の隅だ。ちょうどそちらのほうに走っていく。その背が雪を被った植え込みに隠れてから、アナイスは、ノイエがシャルスにしたように、自分の手袋を外してノイエの手にはめた。子供とはいえもう幼児では無いのにただ渡すだけに止めなかったのは、そうしたらノイエは手袋を返して寄越すからだ。
上等の皮も内張も柔らかな大きめの手袋の内側には兄の体温が残っていて、冷え始めた手に暖かかった。きゅ、と手を握りしめると、余った指先がくしゃりと曲がる。誂えの手袋はそれぞれにぴったりの大きさに作られているのだから、その余った分はすなわち自分と兄の差だと、ノイエは思う。
言いかけた言葉を飲み込み、滲みかけた涙を押し戻し、その代わりに、ありがとう、とノイエは呟いた。アナイスは黙って頷きノイエの頭を撫でた。
雪は止んでも外は寒い。冷たい空気に吐いた息が白くけぶる。
二つめのうさぎは最初のものより少し大きめで、作るのに慣れたのか綺麗な形をしていた。葉を細く切って作ったらしき小さなリボンがくっついている。蝶結びも上手くなったものだ。さっきのが僕でこれがノイエとシャルスは自慢げに言った。さらにもう一つ、ノイエの二倍ほどはあろうかという大きなうさぎを並べた。この雪の中のどこから見つけてきたのか、どんぐりの袴が帽子のようにちょんと載せられていた。これはアナイスだという。実際にはアナイスはノイエと頭二つ分ほど違う程度で、いくら何でも二倍ほどの背丈なわけではない。お前には私はこんな風に見えているのかと、アナイスは少し呆気にとられた様子で呟き、ノイエは、きっとシャルスから見たら兄上はとても大きいのですよと笑った。
大小三つのうさぎは庭の隅っこで寄り添う。また雪が降り出した。空を見上げると青空の半分ほども雲が被っていた。またさらに積もるのだろうか。
うさぎが埋もれてしまわないようにとノイエは傘を持ってきて立てかけた。
うさぎのおうちだねと、シャルスは嬉しそうだった。
窓の外に雪が降る。積もっているのかはわからない。ただ、窓枠に切り取られた暗い夜空を背景に、白い雪が後から後から散っていくのが見える。四角い窓枠で囲われたその景色は、半分しか見えず、いびつな形をしている。枕元に座っている人間の輪郭で隠れているからだ。
「あに、うえ?」
額を冷やす布を取り替えているのはアナイスだった。身体を起こそうとするノイエを手で制し、氷水に浸した布を軽く絞って額に載せる。雪ですかと尋ねるノイエにアナイスは頷き、そこの窓を開ければ屋根に積もった雪に手が届くから氷室まで行く必要が無いと、少し笑った。
広い部屋はしんと静かである。アナイスは部屋をぐるり一周見回した。壁一面、床から天上までの高さにに誂えた、前後三層重ねの本棚には端から端まで本が並び、それでも足りないとばかりにそこらの台に積まれている。物語から教本まで、およそ教養とされるものは網羅されているという印象である。
並べておくだけなら金さえあれば誰でも出来る。だがノイエはこの莫大な文字の集積を全て身の内に取り込んだ。頁にしていくらだろう。厚みにしてどれくらいだろう。重いものを持てばそれだけ人には負担がかかる。ならば知識はどうだろう? 物理的な負荷をかけることはなくとも、精神を押しつぶしたりはしないのだろうか? いいや知識を詰め込むことで身体に直接に負担がかかりはしないのか?
戯言である。そんなことはおそらくあるまい。だがアナイスはこの部屋に来るたびに不安になる。自分ですら圧倒されそうになる膨大な知識に、兄弟で一番小さなノイエは耐えられないのではないかという気がしてくるのだ。
アナイスの手が、ノイエの頬に触れた。熱いな、とアナイスは思った。ノイエは途端に眉を顰めた。沈んだときの表情だ。どうしたのかと問おうとしたアナイスの声よりも先に、ノイエの掠れた小さな声が部屋の片隅に響いた。
「兄上、肩掛けも無しにそこに座っていては冷えるのではないですか。暖かい部屋に戻ってください」
何故そんな言葉が出てきたのだろうと、アナイスは面食らった。確かにここは窓際に近いが、寒ければ掛布なり上着なり持ってくる手間は惜しまない。特に寒いとも感じないし冷えてもいない。だからこの格好でここに座っていたのだ。
気分が優れないときに側に誰かがいるのが不愉快なのだろうかとまず考えた。すぐにその考えは明快な答えに掻き消された。ノイエの手が、頬に触れたアナイスの手に重なる。まるであたためようとしてくるかのような、その手は酷く熱かった。ノイエは熱を出しているのだからアナイスにとって熱く思えるのは当然である。なら逆はどうか。平熱がそもそも低めのアナイスの手は、熱のあるノイエには、驚くほど冷たかったのではないだろうか。
「……お前の熱が高いから、私の手が冷えているように思えるだけだよ。心配せずとも大丈夫だ。昼は仕事がある。今くらいしか側についていられないのだし、お前がかまわないなら、このままここにいさせてくれないか」
ゆっくりとアナイスは言った。ノイエは熱に蕩けた目を細め、乾いた唇をゆるやかな円弧に曲げて、小さく頷いた。
細く長い呼吸を繰り返し、ふと、独り言のように小さな声をこぼす。
「ゆめを、みました」
「夢?」
「小さなころの、夢です。雪が降った日の……うさぎ、三つ、並べた」
言われてアナイスも思い出す。雪は溶けるのだと言われてシャルスが泣くものだから、ノイエは何度も、雪は溶けたらまたお空に返ってもう一度寒いときに降ってくるのだと慰めてやっていた。
「あのときのまま、シャルスは、今も、良い子のまま、です。ほんとうに、奇跡、みたいに……」
そこまで言って、ノイエは少し咳き込んだ。喉を傷めているのだからあまり無理をして話すのはよくないと、アナイスはやんわり宥めた。ノイエは大人しく口を噤み、目を開けているのも億劫なのか、細めた目をゆるゆると閉じてゆく。
時計の針は日付が変わろうとするあたりを指していた。アナイスはため息を吐いた。熱を出してから明日で三日だ。帰ってくるたびに寝込んではいたが今回が一番酷い。体力がないから熱を出し、熱がその乏しい体力をますます奪う。悪循環だ。
ノイエは時折アナイスの手に頬を擦り寄せるような仕草を見せる。ひんやりとした感触が心地よいのだろう。ノイエの火照った頬を撫でながら、アナイスは唇を噛んだ。
最高の司祭などと呼ばれてもその手は無力である。病気一つ治してやれない。治癒の魔術は病には何の役にも立たない。こうして熱を冷やしてやるのが関の山だ。怪我ならばいくらでも治してやれるのにと嘆いたところで足しにもならず、そもそも怪我ならばノイエは自分で治すだろう。権力。これも無意味である。誰もが羨むほどの、王族を除けば絶対に近い力は、その王族の頂点である王自身が強いる不憫な生活から小さな子供二人を助けてやることは、当然ながら不可能だった。
何不自由ない生活を送れるよう生まれついたはずの彼らは、本当に叶って欲しい願いは口に出すこともできずにいる。
風が吹いた。窓枠が鳴った。吹き散らされた雪は四角い夜空を斜めに横切った。
あとすこし。
殆ど声にもなっていないような、息だけに近い音をつなぎ合わせた言葉がアナイスの耳に届く。ノイエの唇がかすかに動いていた。
もうしばらくしたら部屋に戻らねばならないと思っていたところだった。何となく、呼び止められたようにも思う。だがそうではあるまい。
ノイエの意識はもう随分と曖昧になっているようだ。うつらうつらしている。このまま、また眠ってしまうのだろう。朝までゆっくりおやすみと、アナイスは小声で呟き、ノイエの、うっすらと汗が滲む額に張り付いた、細い髪を梳いた。
そう、あと少しで、たった二月で、望んだ日がやって来る。
アナイスはシャルスが生まれた日から彼と彼に科された罪なき罰を知っている。シャルスが生きたのと同じ十五年という長さを、彼もまた、不安に苛まれながら待ち続けた。
終わるのだ。終わるはずだ。そのはずだと、思いたい。終わって欲しい。ノイエの寝顔を眺めながら、アナイスは静かに息を吐いた。
ノイエが何と言おうと、学業を進めるために眠る時間も惜しんだ日々や、あの地下での生活が、ノイエの体力を削ったのは、紛れもない事実だ。幼少の頃は普通よりも少し風邪を引きやすいという程度だったのに、年々弱っていく。今がおそらく限界に違いない。これ以上無理を続ければノイエは本当に寿命を縮めてゆくだろう。
そこまでして守った子だ。シャルスが、自由の身になれた後に、世界を、自分自身を呪って、不幸せにならぬようと、素直で優しいままでいられるようにと、ノイエは心を砕き続けた。アナイスは、弟のその苦労が報われるのだと、信じたかった。
しんしんと、雪が降る。静かに緩やかにしかし確実に、時は刻まれていく。
物音一つしない部屋のどこかに、その音を、聞いた気がした。
幸せは去るときに、不幸せはやって来るときに、足音を響かせるのだと、誰かが言った。
幸せと不幸せがない交ぜの日々が、今、終わる。
お久しぶりですの更新ですorz 書き始めたの12/10らしいですよ奥さん
もう五月までに終わらせるとか無理無理無理無理な進行具合なんですがどうしてくれましょうね?
というわけでやっとこれで中盤戦とか意味がわかりませんがもうしばらく続きますのでおつきあいくださいませ…(滅
今年中には終わらせたいものです
というか夏コミ受かってたら意地でも夏コミまでにry そう言い始めて何年かしら…
やっとリージェスも出て参りました
本編でまだだったのにスターゲイザーの方で先に登場とかこっちも意味がわかりませんね意味がorz
逆にアナイスはこっちで結構出てるのにスターゲイザーでは全く出てきやしねぇのは何故
何がどうDOPなのかますますもってわからなくなって参りましたがそのうちDOP様も出て参りますので今しばらくお待ちください(今しばらくってどれくらいか説明しろ
2008年03月07日 22:48
