Crashers
知らぬが幸い
忘れられないから目を逸らす 逸らしきれずに思い出す
夜遅いホームの雑踏は、それなりに混み合っていながら昼よりも心持ち活気が無い。そこに録音された構内放送が被さる。最終電車が参ります、お乗り遅れのございませぬよう、という機械じみたアナウンスの後に、念を押すように、同じようなことを喋る駅員の声が続いた。日付もとうに変わっているのに『本日の』最終電車というのも、考えてみればおかしなものだと、優士はぼんやり考えた。
お乗り遅れのございませぬよう、そう繰り返されても、彼は電車が無くなったところで何一つ困りはしないので実感が沸かない。そもそも電車に乗るのも久しぶりのことだ。外出は運転手付きの車が当たり前なのだから。今日は珍しく自分で運転して出たところ、偶然にも出先で車が故障した。タクシーも好かないので、真夜中のホームなぞに立っている。本当は電話一つで屋敷から別の車を呼び付けることもできたけれど、彼は結局携帯電話の通話ボタンを押さなかった。
いくつもの路線が集まる駅のホームは全部が屋根に覆われて、顔を上げたところで天井を支える骨組みが端まで続いているのが目に入るだけだ。有名な建築家が設計したとかいうこの駅の造形は確かに美しいけれど、だからといって眺めていて楽しいとも思えなかった。
いくつかの路線はもう終電も終わり、明りが落とされようとしている。ホームに残された乗客が居ないか確認して回る駅員の姿が見えた。プラスチックの座面に突っ伏すようにして眠り込む、あれは酔っ払いだろうか。お客さん、終電終わりましたよ。若い駅員は揺り起こすのに懸命だ。
警笛が鳴って、電車が勢いを落としながらホームに滑り込んできた。空気の流れに前髪が煽られて、一瞬頬がひやりとした。酔っ払いと駅員の代わりに、最近導入されたとかいう真新しい電車の、傷の無い綺麗な硝子窓が、優士の視界を遮った。ベンチに転がる居眠り客がどうなったかはわからずに終わりそうだ。
漏れ出す空気やぶつかり合う金属が立てる細かな雑音と共に、乗車扉が開いた。整列乗車にご協力ありがとうございますという車内放送通り、ホームに居た乗客は並んだ順に車内に入ったが、それは彼らに節度があるからというよりは、今ここにいるのが他人を押しのけるほどの気力を残していない人間だけだからかもしれない。
椅子にはまだ空きがあったけれど、優士は入って反対側の扉のすぐ傍に行き、嵌った硝子に体重を半ば預けるようにして立った。座るのが嫌だというのでもなかったが、ほんの数駅、座ったところですぐに立つのが億劫だった。
目が利く者なら、その様を見れば、酒の臭いが篭もる年末の終電車に一人立っているのが似つかわしくない身なりをしているとわかっただろう。上着も靴も鞄も、どれもこれも上等の誂えもので、よれた様子はどこにもなく、仕事の――少なくとも、終電まで働くことを余儀なくされる勤め人の疲労は感じさせなかった。日付も変わるほど遅くまで、やれ付き合いだ、やれ息抜きだと、飲んだり遊んだりしてきたという風情もない。誰も彼も年末調整で忙殺され、忘年会で店が埋まり始める季節、そこに立っているだけで、彼は異端だった。
優雅に観劇や買い物など楽しんでいたかといえばそうでもない。確かにさっきまで居たのは都内でも有数の料理店だったものの、愛想笑いに見えないように愛想笑いを浮かべ面白くもない話に興じながらの食事では、どんな馳走でも美味くはない。成の阿呆が持ってくるスナック菓子の方が幾分ましだとすら、彼は思っていた。それは大抵の庶民からしてみれば承服しかねる意見であったろうけれど。
硝子窓に水滴が付いているのはさっきまで小雨が降っていたからだろう。建物の暗い影を背景に、赤や青や緑や黄色、橙、桃、藍に白、ありとあらゆる派手色の光が現れては消えてゆく。その、窓の外を過ぎていくネオンやテールライトの流れを、窓に張り付いた丸い雨粒がたわませる。明滅の強烈さがそれでほんの少し緩和された。
優士は濡れた硝子を透かし、外の景色が電車と同じ速度で移動してゆくのをじっと見ていたが、ふとした瞬間に、車内に焦点を戻した。外よりも明るいのにどこか薄暗く思える車内で、立っているのは彼一人だ。椅子に空きがあり、しかも終電車ならなおのこと、疲れて座っているのが当たり前だろう。大半は背広を着込んだ男で、さらにその半分以上は目を閉じていた。眠っているのか、瞼を開けているのも怠いのか。それらの人々に、優士は、散漫な視線を向けた。
向かいの座席の右端に腰掛けた制服の学生は完全に眠りの中だ。薄く開いた唇が寝息に合わせてかすかに動くのがわかる。時間をかけて整えたのだろう髪が一束だけ癖が付いてはねていた。一体こんな時間まで何をしていたのだか。どんな厳しい部活動でもここまで遅くはなるまいに。
その隣の若い男はどこか一点をじっと見詰めている。さて何をそんなに熱心に、と思い視線の先を辿ってみれば、そこには車内吊り広告が下がっていた。十代の少女向け雑誌の宣伝だ。若い男にとっては特に面白みも無さそうだが、はて、と首を傾げ、その広告には他とは一風変わった加工がされていることに気付く。印刷された図柄だと思っていた鞄は、よくよく見れば別の紙から切り抜いてきたもので、それを土台となる広告本体に樹脂の留め具でぶら下げてある。全員プレゼント今すぐ応募! そんな文面が、きらきらしい箔押しで鞄の写真に重なり踊っていた。
若い男は懐から手帳を取り出し何やら書き留め始めた。内容はどうもその広告の仕様らしい。デザイナーなのだろうかと、優士は納得した。一日の(もしかすると徹夜続きの)作業によれよれの風体で、それでも洒落たものを身につけている。肌つやに疲れは見えたが、目は生き生きとしていた。多分彼は自分の今携わっている仕事を愛しているのだろう。鼻の奥が少し痛んだ。やりがいのある仕事というありふれた言葉は、優士にはあまり快いものではない。
一心にメモを取る男から目を背けるように、優士は自分の立っている側の座席に視線を向けた。彼が立っているすぐ傍に、文庫本を読みふけっている男が居た。見た目は若干優士より年下くらいか。本に落とす眼差しの真剣さに、てっきり小説本文を読んでいるのかと思った。しかし開かれていた頁は、後書きのさらに後に挟み込まれているような、他の作者のものも含めた既刊紹介だった。手にした話は既に読み終えて、次に買うものを吟味しているのだ。その真剣さに、ほんのわずか、笑ってしまう。ああきっと本を読むのがとても好きに違いない。笑って、しまう。今度こそ優士は、雑踏の中に見たものから、目を逸らせなくなった。
少し似ている気がした。髪型とか服の趣味とか横顔とか。そのかすかな類似が、目の前に本人がいるように錯覚させる。いかにもありそうだ、奴が終電車で文庫本を読みふけっているなんて。名前を呼びそうになる。すんででそれを押しとどめる。だが一度意識に上った記憶を再び見えない場所に追いやるのは難しい。あいつも本が好きだった。遠くなりつつある記憶の映像を、声を言葉を、彼は否応なしになぞる羽目になる。
もう何年も経った。正確な年数は数えなければ弾き出せない程度には時間が過ぎた。思い出すことも随分と減った。だが忘れられはしない。そのことに気付かされる。薄皮一枚隔てたように遠いそれらの記憶は、ただ遠いだけで、今なお鮮明だ。
電車に乗るのなど何年ぶりだろう。出歩くときはいつも車だ。でももしかしたら。こうやって人混みの中を歩いていればもしかしたら錯覚ではなく別人ではなく、目の前を横切る瞬間に出くわせたのではないかと、どうしようもない『もしも』に取り憑かれる。この人混みでたった一人と行き会う。限りなく、ありえない。そもそも同じ街に住み続けているのかすら危うい。偶然を期待するには余りにも薄い可能性だが、薄いゆえに偶然以外何も期待できないのも確かで、同時に今までその偶然に巡り会う機会すら無くしていたことに彼は、今更気付く。肋骨の内側を心臓が叩いた。
それは酷く怖ろしいことだ。あったかもしれないという、曖昧でもう何の意味もない可能性の残滓は、残滓だからこそ余計に彼の焦燥を煽るのである。あった、なら素直に悔やめばよい。無かった、なら忘れてしまえる。あったかもしれない、だから悔やみきれない。どうせそんな都合の良い偶然なんて起こりやしないまるで宝くじを期待するようなものじゃあないかとどんなに自身に言い聞かせても、でももしかしたらといくらでも仮定が芽を出し葉を開き、そして蔦のように細く長く伸びて彼を絡め取り離さない。
電車が駅に止まった。数人が降り、数人が乗る。その隙間から、声が聞こえてくる。
お乗り遅れのございませぬよう。
組んでいた腕を解きそうになった。それは思わず耳を塞ごうとしたからだ。
彼は背を押されたように閉まりかけたドアに身体を滑り込ませ電車を降りると、ホームを小走りに通り過ぎて階段を駆け上り改札を通り抜け駅を出る。終電の過ぎた消灯間近の構内は閑散として静かだ。もう乗客を急かす放送も無い。それなのにさっきとは打って変わったこの追い立てられるような心持ちはどうだ。
軽く首にかけただけのマフラーが滑り落ちそうになった。携帯電話を上着のポケットからもどかしく引っ張り出す手が震えていた。電話に出た執事に運転手を寄越すように言う声は至極冷静だったのが、いっそ滑稽だ。行き先とも違えば最寄り駅でもない半端な場所に居る主人の寄る辺無さを、執事は感じ取ったか、それは定かではない。わかりましたと丁寧な口調の返事を聞いて、優士は電話を切った。
吐いた息が白く曇る。目の前をそれよりも白い小さな欠片が横切る。地上から照らされる夜空を見上げた。雲もないのに雪がちらついていた。寒いはずだ。これは初雪だっただろうか? それとも二度目か三度目か? 記憶に無い。あの年のは驚くほどはっきりと覚えているのに。あいつは雪だ雪だと五月蠅く騒ぎ、寒いと悪態をつくくせに成と二人して庭に出て、挙句自分までも引っ張り出した。あの寒い朝が、十二月の終わりだったことさえ、覚えているのに。
呆然として、優士は息を吐く。手袋をしているのに指先は冷たい。瞬く目蓋と眼球の隙間を満たしていくものが何なのか、彼は嫌になるほどよく知っている。
お乗り遅れの、ございませぬよう。
耳の奥で声が響く。
彼の中で半端な後悔が切れ切れに浮き上がっては沈んでいく。悔やむのは気付いてしまったことか、それとも今まで気付かずいたことか。しかし実のところ気付かずにいたのは必然だ。だって自分が目を逸らしていたのだから。ここにいないことよりも探して見つからない方が怖かった。永遠に失われたと思い知らされるくらいならどこかにいるのだと思い続けていられるほうが良いのだと。けれどどうだ、記憶に眠る面影をほんの一瞬揺り起こされただけでこうも狼狽える情けなさは。
人影まばらな暗い駅の片隅で、彼は震える両手を握り締め立ち尽くす。
何に乗り遅れているのか知っている。
そして今なお一歩目を踏み出すことを逡巡している、けれど。
どこに居る? 何をしている? 息災であるか? それとももうどこにも居ないのか?
頭蓋の中を堂々巡る問いの答えを、知るも知らぬもそれぞれに平穏でそれぞれに不幸だ。ならばいっそ知る不幸を選んでしまえと、心で何かが囁いた。
書きかけたのは11月だったらしいが
PC組み換えのあとコミケ地獄に突入して現在に至る
新年早々全然清清しさの無い更新ってどうなんだ自分よ
2009年01月13日 18:40
