RagnarokOnline ...longing/love
05.識る人々
記憶を辿り そのなかに幸せを見つけ出して
彼らの数年間を識る者は少ない。
いささかに長くなるが、その数少ない人々を、彼らの話とともに挙げる。
シャルスが赤ん坊の頃から世話係として付いていた老爺がいる。
彼は言う。
それはそれは素直なお子でした。満足に遊んでやることもできない私に我が儘も言わず、手を煩わせることもなく、大人しい子で、だからなおさら、私はその姿を見ているのが辛かったものです。愛らしい笑顔を浮かべる度、もしもあんな先行きを見なければ、人の中で普通に育てられていたならば、きっと多くの人に愛されただろうに、と。
我が国は神の国、よって神の御心を知る手段として星見を行い、その結果に従って治められております。節目には必ず星を見ます。しかし皆様よく勘違いされますが、星見というのはね、絶対の予言ではないのです。天災などはともかく、人の運命に、けして絶対という言葉はありません。たとえばあなたがいずれ素晴らしい成功を収めるという託宣があったとしましょうか。それに安堵して自分を磨く努力を怠ってしまっては、折角の成功も泡沫と化してしまいます。
可能性なのですよ。私たちがたどり着き得る数多の未来の中でも最も確かに輝くものを神が私たちへ教える、それが星見です。私たちの努力、あるいは怠惰次第で、その未来は光を失い、代わりに別の未来が輝きを増す。星見は私たちが望む未来へ進む為の手助けなのです。
生まれたばかりのときからすでに整ったきれいな顔立ちの赤子でした。兄君と二人、美しい刺繍を施された布地にくるまれて、すやすやと眠っていたかわいい顔と小さな手を思い出します。双子の王子は不吉な存在とはよく言われますが、そんな迷信など吹き飛ばしてしまうほど可愛い赤子らで、まるで天使のようで。いずれ父君を、国王陛下を手にかけるという未来が、あのときどうして最も輝いていたのか、私には今でもわかりません。
ノイエリーフェ様ですか。あの方もまた、優しい、可愛らしいお子でした。小柄で華奢な身体のどこに、あんな力を抱いていたのでしょうね。王家の方々が神の御子ならばノイエリーフェ様は神に愛された子だと、皆が賞賛したとか。
幼少の頃は病弱だったと聞いております。私はあの地下の街で、ノイエリーフェ様が身体を壊されないか気を揉みました。
本当は、あの太陽の当たらない街での生活は、あの方にとって負担だったに違いありません。事実、四季折々の歳事や、国王陛下、皇太子殿下の誕生祝いのために国に戻ると、式典の後で数日は伏せっておられたとか。実家に帰られる度に地下での生活の疲れが出ていたのでしょうね。
年を経る毎に少しずつ、少しずつ、痩せていかれたようにも思います。ですがあの方は一度も――少なくとも、シャルス様、が、いるところでは、一度たりとも具合の悪い素振りは見せなかった。
いつも、笑っておられました。
不思議なものです。どんなに幸せな日々を送る人でも、四六時中笑っているなんてことはない。ノイエリーフェ様にしても、淋しげな様子を見せたことも、シャルス様の無茶に困った顔をされたこともあった筈です。いえ、あったのです。私はそれを覚えているのです。それなのに、笑っておられた顔しか、思い出せない。
――本当に、不思議なものですね。
あの陰鬱な地の底で、私も確かに安らぎに似たものを感じていた。
今でも、あの地下で過ごした日々を思い返すとき、私がこうして脳裏に描くことができるのは、穏やかな幸せだけなのです。
たった一人、ついていくことを許された召使いがいる。彼は色盲の上弱視で、自分と共に暮らしている人間が皇太子と瓜二つであることはわからなかった。そしてまた愚直なほど真面目で勤勉な人間だった。主人の命は何を置いても違えることなく、秘密は必ず守り抜く。幼い時分からクローデルの家に仕えてきた彼は、その間積み上げた信頼によって、留学という名目で地下の街に行く末っ子への同行を許された。
当時を思い返すとき、彼は何かを懐かしむような惜しむような遠い目をする。
留学に行くというのに誰も供を付けないという話だったのには驚きました。だってノイエリーフェ様は身体も丈夫ではないし、慣れない土地で知らない人間ばかりに囲まれて、倒れてしまわれやしないかと私は心配しました。
ノイエリーフェ様は生まれた時から存じ上げております。私がクローデルにお仕えしたのは、あの方がお生まれになられる二年前からでしたので、赤子の頃からお世話したのはノイエリーフェ様だけで。こう言っては失礼に当たるかも知れませんが――ええ、身分というものがね、違いますから、でも――まるで、弟のように思っていたのですよ。ああいや、十五ほども年が離れておりますから、我が子のように、と言った方がいいかもしれない。
私はこちらの家に仕える前にいくつか名門の家に奉公に出されたこともありましたが、貴族のお子様というのは、酷い子も多いもので。私の目がほとんど見えていないことを知ると、それはそれはしつこく嫌がらせをしたものですよ。ところがこちらのご兄弟は、皆、素直でお優しくて、私に悪戯を仕掛けたことは一度もなかった。あの悪戯好きだったお二人もです。
中でもノイエリーフェ様は、私を見つけるとドアを開けてくださったり、落として気付かないものを拾って渡してくださったり。こう言っては何ですが、貴族らしからぬ方だ、と。尊大さなど全くない、どちらかといえば純朴という表現がしっくりくるような方でした。私はあの方を本当に、心から、お慕いしていたのですよ。勉学も兄弟で一番で、末はきっとご立派になられると信じておりました。
だから留学の話を聞いたとき、私はご主人様に散々申し上げました。何故誰一人供をつけないのかと何日も何日も食い下がって、よくぞまあ暇を出されなかったものだと今思います。十日ほども言い続けたでしょうか。ついにご主人様から、本当は留学では無いのだとお聞きしました。
何でも、あと数年は人前に出すわけにはゆかない方を、酷い話だと思いますが、まだ年端もいかないというのにどこやらの廃墟に閉じ込めてしまうのに、ノイエリーフェ様が供をするとか。その方の素性? それは当時は知らされませんでした。ご主人様がおっしゃらないことなら知る必要も無いことです。まさか皇太子殿下の弟君とは思いませんでした。考えてみればノイエリーフェ様が供をするということはあの方より身分の高い方なのですから、王家に連なる方だというのは自明なのですが。
私は自分がついていくと申し上げました。最初は許して頂けませんでしたが、これも何日も何日も繰り返している内にご主人様が折れました。アナイス様の口添えも大きかったと思います。アナイス様もやはり、ご老人一人しかついてゆかないというのは心配だったのでしょう。いえ、目のよく見えない私がいかほどの助けになるかは疑問ですが、家具の配置さえ覚えれば、お世話することくらいはできますし。
――シャルス様のことは、本心を申しますと、最初は少し疎ましく思っておりました。あの方がおられなければノイエリーフェ様があんな不便な場所に赴かれる必要などなかったのですから。勿論ノイエリーフェ様ご自身がそれを決められたのは承知です。それでも、素晴らしい成績で神学校を卒業されて、私にはあまりよくわからないことですが、見目も大変よろしいとか。身分もご存じの通りですから、何不自由ない人生が約束されていたのに、お世話する者もろくにいない生活をする羽目になるなんて。
けれどもしばらく一緒に暮らす内に、私もシャルス様がいつの間にか好きになっていました。憎めないのですよね。素直で、一生懸命で。いつもノイエリーフェ様の後をついて回っていましたよ。そんな様子が微笑ましくて。ああそう、あの方も優しかった。そしてまるで平民の子供のようでした。口汚いだとか仕草が雑だとかいうのではないのですが、何といいますか、親しみやすさが。シャルス様はご自分の本来の身分をご存じだったということですが、そのように育てられなかったのなら仕方のないことでしょうか。
シャルス様は本当に、ノイエリーフェ様がお好きでした。いつも一緒でした。
よく居間で眠ってしまわれたのを覚えています。ほら、小さな子供というのは早寝でしょう。シャルス様はノイエリーフェ様より四つほど年下でしたか。ですから遅くまで勉強しているノイエリーフェ様と同じ時間まではね、起きていられないのですよ。でも一緒にいたいものだから、ずっと居間で頑張って、大抵はノイエリーフェ様の隣でうとうとして。
ノイエリーフェ様は小柄なほうでしたから、あちらへ行って少しした頃には、シャルス様を寝床まで運んで行くことが出来なくなってしまいました。何度も二人がかりで運んだものです。抱き上げるだけなら私だけでも充分なんですけど、何せ目がこれでしょう。ベッドに寝かせるつもりが床に落としてしまいかねませんから。
そうそう。一度ね、ノイエリーフェ様が実家に戻っておられたときに、ぽつりとシャルス様が呟かれるのを聞きました。
私は何も聞き返しませんでした。シャルス様は、口に出したことを気付いておられないようでしたから。
どうしてそんな言葉を口にしたのか、私には察することしかできません。何を思っていたか、それはもうシャルス様だけがご存じのことです。ただ、私には、その理由がわかる気がします。
本当に本当にシャルス様はノイエリーフェ様がお好きでした。だからあの方はきっと、自由が少し怖かったのです。あの方にとっては、光の届かない辛気くさい地下で当たり前の自由さえ何一つ無いまま過ごすことよりも、ノイエリーフェ様と離れることのほうが耐え難かったに違いありません。
ノイエリーフェ様は王族に次ぐ身分です。相応の役目も御座います。あの方自身が地位や権力を誇ることなどけして無い方でも、本来ならばそれなりの地位にある者でなければお目通り叶いません。幽閉が終わり自由を手に入れる日は即ち、シャルス様が、王族に連なる存在であるという真実を捨てる日だったのならば、それが別れの日だったとしてもおかしくはなかった。
――あの方は、自由さえいらなかったのです。ただ、…ただ、一緒にいたい。それだけでした。あのころにはもう、自由を待つことさえ、自由になれたならきっとノイエリーフェ様が哀しい顔をすることはなくなるからというだけだったのでしょう。
私は少し、シャルス様の気持ちがわかります。
幽閉など早く終われば良いと願っていたはずなのに、今、あの日々を懐かしく思います。
ごく限られた人間としか顔を合わさない閉じた日々に気が滅入ることもありました。光にあまり意味のない私にすら薄い闇のような光しかない地下は時に苦痛でした。けれど互いに愛しみあう二人は微笑ましく、穏やかに静かに暮らした日々は、あえてひとつの言葉で言い表すのならば、幸せでした。
自由は、それは喜ばしい。でも同時にこの幸せも終わるのなら――そんな日はこなくてもいいと。
私でも、思うことがあったのです。
クローデル家の子供は皆で五人いた。上から順に、長兄アナイス、長姉ダナエ、次兄シュバルツ、三男ヴェルセン、そして末のノイエリーフェ。ノイエ一人だけ年が離れていたせいだろうか、ノイエ自身のおっとりした性格もあったのか、喧嘩などすることもなく、兄姉達は皆小さなノイエを可愛がった。
彼らは首都を離れることができない両親の代わりに、それでも彼らも多忙故ごく稀にではあるが、代わる代わるひっそりと地下の街を訪れ、そこで暮らす四人を見舞った。
彼らもまた、可愛い末っ子の、一般的にはどう贔屓目にも不幸としか言いようのない地下での生活を語るとき、愛惜を瞳に宿す。
ノイエがシャルスのところへ行くのに送り迎えするのは昔は私の仕事だった。あの頃は父以外には、シャルスが居る塔へゆけるのは私しか居なかったからだ。けれどすぐにあの子は術を覚えた。私が駄目だと言って手を貸してやらずにあの子の無茶を止めることはできなくなってしまった。あんなに早く、人の手を必要としなくなるとは思わなかったね。
天才だ何だと皆言った。あの子は確かに私たち兄弟の誰よりも術の能力に恵まれていたけど、あの年であれだけの術を手にするために、いかに努力を重ねたのか、知っている者はどれだけ居るだろう。小さい身体で寝る間を惜しんで本を読んで勉強ばかりして、だから小さかったのかもしれない。
そう、精神力には十分すぎるほど恵まれたその代償というわけでも無かろうが、体力は本当に乏しかった。特に地下での生活が始まってからというもの、年々弱っていくのを見ているのが辛かった。数年の間、私は会いに行く機会が無いに等しかった。そうするとね、たまに帰ってきたときなどに、いつも、ああ前に会ったときより痩せてしまったと思うんだ。毎日顔を合わせていたら気付かない程度だったのかもしれないが。
小さな頃を思い出すよ。私が一番年長とはいえ、他の兄弟達は年が近かったので、生まれた時のことははっきりとは覚えていないのだがね。ノイエが生まれたとき私はもう十になっていた。あの子のまるめた手のひらを、自分の手ですっぽり覆ってしまえたのに驚いたのが妙に記憶に残っている。赤ん坊というのはこんなに小さなものかと。
生まれた日にあの子と同じ名の木を庭の一番日当たりの良い場所に皆で植えた。母の好きな花だ。華やかだが上品な白い花だよ。今年もよく葉を出しているから、花の季節になればさぞかし美しいだろう。植えた当初は根付きが悪くてずっと小さいままで、枯れてしまうのではないかと心配したものだが、その内勢いよく伸び出した。
ノイエは結局その苗木の高さに追いついたことがなかった。あの子は小柄だったから。
不思議なものと言おうか、ノイエがあの地下にゆく前に拾ってきた捨て猫がいるのだが、あれはあの木が気に入りで、気付くとそこに登っている。同じ名前だと知っているのかどうか。この間は枝で眠っているのを上の弟が驚かせたものだから、危うく落ちるところだった。
拾ってきたときには生まれたばかりの子猫だったから、母猫に何も教わらなかったのかもしれない。どうにも猫にしては鈍い。もしかしたら自分を人間と思ってやしないかと疑いたくなる仕草も見せる。ノイエの弟みたいなものかも――ああ、弟みたいだったのはシャルスの方か。
知っていた。ノイエがシャルスを大切にしていたことも、シャルスがノイエを好いていたことも。ずっと前から知っていた。それを承知で、私はノイエが地下に行くのを止めさせようとした。止めたかった。それが叶わないことも知っていた。何度私が行くと言っても、陛下は首を縦に振らなかった。振る筈が無いこともわかっていた。
理由? 陛下が私ではなくノイエを行かせた理由か? お前は跡取りだからと陛下は繰り返されたが本当は、いいや、今更言っても詮無いことだ。今更だよ。
後悔というのとは少々違うか。悔やみようもないほど、できるだけのことはしたのだから。
ただ、遣る瀬ない。
いつから、祈るということに意味を見出せなくなっただろう。祈って何になる。神は助けてなどくれない。いいや私たちの小さな弟をあの薄闇に追いやったのはいわばこの国に暮らす者にとっての神そのものではないか。
司祭の服と十字架は私にとってはもう神への信仰の証ではなく戒めだ。
不信心者よと笑うかね? だがこの世界の何処かに神が真実おられるのだとしても私の心にはもういない。
私は――神など信じない。
…もうすぐ春が来るな。シャルスが生まれた日のことを思い出す。そういえば初めてノイエをシャルスのところに連れて行ったのも、同じ季節だった。よく晴れた、けれど寒い日だった。
あの日の、私の手を握りしめる小さなノイエの手の暖かさが今も残っている気がしてならないよ。帰り道泣いていたあの子にかける言葉は見つからなかったけれど、いつかそんな風に泣かなくともよくなるようにとあの日はまだ祈ることができたんだ。
私はあの子の手を引いて歩いた日々を忘れない。幸せに導いてやれなかったことを、忘れない。
生涯…忘れない。
そうですね、私はノイエがあの地底湖に浮かぶ島に行く前の年に嫁ぎましたので、あの子が行ってしまう前にもう、会う機会は随分と少なくなっていました。嫁いだとはいえ騎士団での役職には継続して就いていましたが…私も騎士の端くれですよ、国を守る為に戦う覚悟は男の方たちに負けません。ええ、ですから騎士団にはほぼ毎日のように顔を出していましたが、あの頃ノイエはまだ神学校の生徒でしたから、王城ではユリスファータ様のお部屋に伺うだけで、顔を合わすことはほとんどありません。たまの里帰りと折々の式典の時に話をするくらいでした。
それですから、普段はノイエがいないことを意識に上らせることはあまり無かったのですが、それでも急な用事などで実家へ参りますと、いつも話をしにきてくれたあの子がどこにもいないので、違和感といいますか、何だか物寂しさを感じました。一緒に暮らしていた両親や兄弟たちは尚更だったでしょうね。
特に下の弟たちは、私や兄に散々叱られていた反動でしょうか、年が離れて生まれたノイエを殊の外可愛がっておりましたので、あの子がシャルスのところに行くことは気にくわなかったようです。一度悪戯をしてシャルスを酷く泣かせたことがありました。それでシャルスは一人になるのを寂しがって泣くようになってしまって、兄とノイエは困り果てたとか。ええ、兄はそれはもう弟たちを叱りました。今となっては、それさえ懐かしい。
兄、ですか。
いつも冷静で、表情を変えない人です。一番年が近いのが私ですし、私が騎士団勤めですから、王宮で国政に関わる兄とは、仕事のことも含めてよく話をしましたが…何を考えているかわからないとかいうのでは無いのです、自分の考えは理路整然と話してくれますし。ただ、どう感じているかは、なかなか分かりづらい人ですね。何せ表情に出しませんから。
騎士団に所属のノワールという…ご存じですか。剣の腕と任務遂行の確実さでは騎士団随一の人で、危険な任務やあまり表に出せないようなことでもよく任されます。彼もまた表情を全く変えない人です。一歩間違えれば得体の知れないと言われてしまうような。彼は出自が定かではありません。私が言うのも何ですが、王城というのは生まれがなんだ身分がどうしたと五月蠅いところですから、陰口を叩く者も多くて。王が彼を重用するものだから余計酷かった。暗殺者あがりだから裏の仕事に使うのに丁度良いのだとか噂している者もおりました。当の本人がそんなことなど意にも介さず一人黙々と任務をこなしてゆくので、陰口を叩いている側が尚更滑稽でしたが。
そうそれで、ノワールと兄は、巷では無表情の双璧とかよく言われておりますね。低目の声で淡々と要点だけを述べる様や、普通の人間なら大いに驚くようなことでも表情ひとつ変えずに聞くところなどは、確かに似ているかしらと、妹の私も思います。二人話をしているのを何度か見かけましたが、顔立ちも何も全く違うのに何だか雰囲気が似ていて、私は思わず笑ってしまいました。
二人をくくって冷徹な人間だとそしる人もいます。酷薄だとすら言われます。一切の感情を廃したようにすら見えるノワールは致し方ないとして、兄も徹底して厳格ですから、そうやって煙たがられるのは仕方のないところもありますね。兄には私もよく甘さを指摘されたものです。稽古にしても、任務に対する姿勢でも。けれど私は、兄が、誰よりも自分自身に一番厳しいのを知っておりますので、その言葉を素直に聞くことができました。
あの数年間、誰よりもノイエとシャルスの処遇に心を痛めたのは――兄だったと、私は思います。
冷静ですが、冷酷な人ではありません。幼い子二人をあのような場所へやることしかできなかったことに責任を感じておりました。せめて、あの数年間、二人が不幸ではなかったと思えたら、まだ救われるかもしれませんが…
兄はもう司祭としての父の職務を半ば以上肩代わりしていました。皇太子殿下の筆頭従者でしたから、二人の様子を見に行くこともほとんど叶いませんでした。陰気な地下で、それでも二人は笑っていたと、弟たちは言いますが、その様子を実際に目の当たりにすることが滅多に無かった兄は、果たして心からそれを信じられているでしょうか。
兄が一体何を思っていたのか。それを考えると心が痛みます。
この剣? 古びているでしょう。もう何年使っているかしら。私の手に一番馴染んだ剣です。戦など無くても戦うことは多々あります。たとえば先日などは国外れの山中に拠点を持つ盗賊団の掃討に赴きました。討伐隊には上の弟もおりましたね。勿論人も切りました。罪悪感など感じたことは一度もありません。国を、そこに暮らす人々を守るために得た力です。平穏を脅かす者は容赦いたしません。
けれど最近時々それが揺らぎます。いえ、切ること自体、ではなく。
私は強くなったと自分で思っておりました。昔は剣を持ち上げて振り回すだけで精一杯だったものですが、今は自分の振り抜く剣の切っ先がどこをどのように薙いでいくか手に取るようにわかります。相手の剣が自分に届くか空を切るか、瞬時に判断することもできます。騎士団でも私に敵う者はあまり居ないのですよ。
守るために、私は強くなりました。でも私は愛する人を守れたかしら? あんな年端もゆかぬ子供二人暗い地下の街に行かせることしかできなかった私が何を守れるというの?
この力に、何か意味があるのか、と――時々思います。
そういうときに決まって二人の笑顔が浮かびます。私の記憶の中で、楽しそうに幸せそうにあの子達は笑います。
泣きたく、なります。
もう二度と――もう二度と、あんな思いはさせたくないし、したくない。
そのために何ができるのかと私は日々自問します。考え努力し続けることが、私の答えです。それが正しくても、間違っているとしても、私にはそれしかできないのだから。
私は…ああもう、俺でいいか。いいよな。堅っ苦しいのはどうにも慣れないよ。ヴェルセンも昔は俺と似たような喋り口だったのに、いつの間にかあんなすました口調になってるんだから驚いた。
ちっこいシャルスに悪戯しかけて思いっきり泣かせて兄貴に大目玉食らったことはよく覚えてる。一時間以上機嫌最悪の物凄い声で説教されて忘れるなっていう方が無理だろう。年も三つしか変わらないのに何だってあんな威厳満載なんだか。ああその悪戯だけど、軽率だ馬鹿だって言われても、まさかシーツ被っておどかすだけのつもりがあんなことになるなんて考えもしなかったんだ。本気で泣くまで虐めてやろうとか思わなかった。
でもあのことが無かったら、俺はずっとシャルスのことが嫌いだっただろうな。もしかしたら今もずっと恨んでいたかもしれない。何でノイエを連れて行ったんだ、って。
ヴェルセンがノイエを部屋から連れ出した。一人座り込んでたシャルスを驚かせるのが俺だった。シーツをかぶって部屋に飛び込んだ俺を見てあいつは最初きょとんとしてた。それからみるみる表情を強張らせた。まぶたの内側で涙がうっすらと目を覆っていくのがシーツを破って作った覗き穴から見えた。俺はきっと泣き出すと思った。でもあいつの唇が開いて一番最初に聞こえたのは泣き声じゃなかった。
ノイエをどこにやったの。
あいつはそう言った。
ノイエの代わりに俺が部屋に入ったんだけど、そしたらそれを見たシャルスは部屋の外でお化けがノイエと鉢合わせしたんじゃないか、それでノイエが戻ってこないんだからノイエはお化けに食べられちゃったんじゃないかとか思ったらしい。ガキが頭働かせて考えたにしては賢いもんだろ。
それで泣きながら小さな手で俺のことぽかぽか叩いて、ノイエをかえせーって言うんだ。
俺は困って何も言えないし何も出来ないまま突っ立ってた。今更悪戯でしたなんて本気で泣き喚いてるあいつに言い出せないし。どうしたもんだろうと思ってたらヴェルセンを振り切ったノイエが息を切らせて部屋に戻ってきたよ。その姿を見るなりシャルスはノイエに飛びついて、疲れて眠っちまうまで泣いてた。
――きっと、さ、あいつは大きくなったら、強くなるんだろうって思った。
あいつは怖いとか助けてとかそんなことは一言だって口にしなかった。俺を本物のお化けと間違えたんなら、本当に怖かっただろうになあ。自分を助けてって言うよりも先に自分の大事な人間を気にかけるのは強くなれる人間だ。そうだろ? たとえそんときは弱っちくても。
俺はあのとき、シャルスがちょっと好きになった。見所あるガキだなっていうか。だから俺は今だって、あいつのことを恨まずにいられる。あいつがもっと嫌な奴だったら、ノイエが苦労したのは、あいつのせいだって言えたかもしれないけれど。
…兄貴が選ばれなかった理由? あの地下の街へ同行するのにか?
ああ、うん、聞いたことはある。でも兄貴が答えなかったのなら、俺が言うことじゃないな。はっきり陛下がそうおっしゃったわけでもないんだ。ただ兄貴がそう考えてるってだけの話で。
俺が兄貴からそれを聞いたのは多分何年か前のユリスファータ様の聖誕祭の後じゃなかったかな。その後で俺と兄貴で飲んでたときだ。ヴェルセンは騎士団に詰めてたんでいなかった。
兄貴は珍しいことにかなり酔ってた。あの人滅多に飲まない上に飲んだら底なしだから早々酔わないんだけど、その時は俺も兄貴も飲んだ量が半端なかったし。
何かの拍子に兄貴がいつもつけてるロザリオのうち一つの鎖が切れて十字架が膝の上に落ちた。鎖が傷んでたんだな。兄貴は大きな傷のあるそのロザリオを後生大事にしてたけど、何せ毎日つけてたもんだから。
兄貴はそれを見て、持ってたグラスをテーブルに置いて、膝の上に落ちた十字架を手にとって少し笑って、ソファの背もたれに倒れ込むようにして体重を預けて、独り言のように、何故シャルスの供が兄貴じゃなくてノイエだったのか呟いた。ほんの二言三言の、短い、あれは懺悔みたいに聞こえた。
それから、額に添えた手のひらの向こうで、ぽつりと、涙をこぼした。
俺は生まれてこの方兄貴が怒るのは日常でも、笑うことはあっても、泣くところなんて見たことがなかった。俺が物心ついたころには兄貴は七歳だか八歳だか、まだガキだよな。けれど兄貴はもう兄貴だった。滅多矢鱈に厳しくて下手したら親父よりも怖かった。俺は、兄貴が、泣くんだってことを――知らなかった。泣かない生き物だって心のどこかで思ってた。
泣いたんだ。あの兄貴が。
…一度だけ、兄貴に言ったことがある。何でノイエを往かせたんだ、って。詰ったって言ったほうがいいかな。
あんなこと言わなきゃ良かった。
俺が、ヴェルセンが、姉貴が、親父とお袋が、ノイエのことを大事に思っていたように、兄貴だってノイエが大事だった。大事にするのを諦めたことなんて一度も無かった。それなのに俺は、兄貴があっさりノイエの手を離したんだと思ってた。何で俺はそのときまでわからなかったんだろう? ずっと同じ家で暮らしてた家族なのに。
俺は……そのとき、心底、後悔したよ。
なあ、なんで、シャルスとノイエはあんな目に遭わなきゃいけなかったんだ?
俺はお役目柄、犯罪者の追尾とか盗賊団掃討にも駆り出される。こないだも姉貴と同じ隊に入れられて山ん中まで行ってきた。あれだけの規模の盗賊団になりゃあな、そりゃもう凄いもんさ。ちんぴらなんて次元じゃない。筋金入りの悪人揃いだ。人を殺したことが無い奴なんてほとんど居ないし、人を傷つけることに何のためらいもない。そういう奴らをとっつかまえてきて、さてそれじゃああいつらはどんなお裁きを受けるのかって話だよ。
大抵はまあな、縛り首なんだけど、中には投獄だけで済む奴らもいる。確か…強盗の常習犯で、他に一人二人弾みで殺した奴が、十五年だったかな。殺された奴らも同じような盗賊だったからその程度なんだ。
十五年。シャルスが何処にも行けずに過ごした時間と同じだけ監獄での生活に耐えりゃ、あいつらは罪を赦される。
なあ。シャルスが何をした? 生まれてきただけだ。皇太子殿下の片割れとしてこの世に生を受けた、ただそれだけだ。それだけのことが、人を傷つけ殺すのと、同じ罪だっていうのか? ノイエにしがみついて泣いてたあの小さいガキが、ただ存在するだけのことが、人を殺すのと同じ罪?
俺にはわからない。
わからないけど、同じ事がもう二度と起こらないように――俺が祈ってるのはそれだけだ。
ええ、私が一番頻繁にあの場所へ赴いたと思います。といっても月に一度行けるかどうかでしたが。
何せ私がノイエを除いた中では兄弟では一番年少で、教会騎士の中でもひよっこでした。兄姉たちのように、重要な職務などまだ任されていなかったので、比較的自由はききました。
行くたびにノイエは笑って出迎えてくれましたよ。日によってはシャルスの稽古の日と同じになることもあって、そういうときにはあの子は朝から稽古の終われば昼寝ですから、ノイエと話をする時間が長く取れました。だから私はできるだけそれに重なるように予定をやりくりしていました。
ノイエが地下へ行くことになった当初、私が一番シャルスに不平不満を抱いていたものです。
他の兄弟にとってもノイエは当然取り替えのきかないたった一人の末の弟ですが、私には弟という存在自体がノイエ一人でした。ノイエが生まれたときに兄弟の中で一番喜んだのが私です。自分より小さな存在が、守ってやるべきものが、家族にできたことが、何だか嬉しかった。
それをシャルスが遠くにやってしまいましたから。…やっぱりね。シャルスはそりゃあ可哀想な境遇だったし、いつか自由になれることを心から祈っていたことは本当です。でも全く恨みもしなかったといえば嘘になるでしょう。ノイエは、毎日あの子と会っていたせいもあるのでしょうが、シャルスを本当の弟のように思っていた。だから一人廃墟へやってしまうことをよしとしなかった。ですが私にとってはシャルスは弟ではなかった。可愛い自分の弟を自分から遠ざけるものだった。
けれども一番足繁く通っていたのも私で、二人暮らす様を一番見ていたのも私でした。あの薄暗い場所での生活を、それはそれでそう悪いものではないのかもしれないと、初めて私が口にしたとき、下の兄には凄い勢いでくってかかられましたよ。お前あんなに不平たらたらだったくせに早々に懐柔されやがって、とか。いや下の兄も不満は相当なものでしたからね。いつぞやの悪戯の一件でシャルスが良い子だというのは知っていましたから、シャルス自身に敵意を抱くようなことはありませんでしたが、それでもまあ、私に近いくらいにはむくれていました。
でもね、認めざるを得ないと思うのですよ。行くたびににこにこと出迎えてくれて、楽しそうに昨日はああした今朝はこうだったと、笑って話してくれる。考えてみれば家にいた頃、ユリスファータ様とシャルス両方のところへ顔を出して、なおかつ学校にも行っていた当時は、家に帰ってくるや毎日毎日ひたすらに片っ端から本を読んで、少しでも早く神学校の課程を修了させようと頑張るばかりで。いつか倒れてしまいそうだった。それに比べれば、ゆっくりシャルスと遊んでやれる日々は、あの子にとっては良いものかもしれないと思いました。
ひとつ、後悔していることがあります。
私はノイエが地下に赴いたあの日から、あの子が悲しいとか寂しいとか辛いとか、そういった素振りを微塵でも見せるところに、ついぞお目にかかりませんでした。ええ、幸せは幸せだったのに違いありません。けれど仮に嘘偽り無くノイエが幸せだったのだとしても、幸せな日々にだって、愚痴も不満も時にはあるでしょう。そういうときに、辛いと言いたくても言えなかったのだったら。
私たちはあの生活は辛いものだと思っていました。どんなに彼らの笑顔を目にしても、あれはあれでよいものかもしれないと感じても、やはり根底では、あの子達が送るのは当人がどう感じようと幸せよりは不幸せにより近い日々だと。
だからね、ノイエはもしかしたら、一言でも辛いと言ったら、それ見たことかと早々に連れ帰られると考えて、私たちにいつも笑顔を向けることしかできなかったのかもしれないと、今思うのです。
――もっと、信じてやればよかった。
辛いなら泣いても良いのだと促すのではなく、ただ、辛くないという言葉を、心から信じてやればよかった。
そうしたら、もしかしたら、ノイエは辛いと言ったかもしれない。その、幸せの中に混ざって転がっている不安を、和らげる手助けをしてやれたかもしれない。
もう、今更なのですが。
週に数度、地下を見舞い続けた騎士がいる。彼がその役目を王から与えられたのは、もとより彼が他にも表沙汰にできないような、時には陰惨ですらある任務をこなす部隊の一員で、その中でも有能さと口の堅さでは群を抜いていたからであり、負荷が著しい長距離の空間移動に耐えうる頑強な身体を持っていたためでもあった。
彼は王が子供らを慮って自分を地下に寄越すのでは無いことを重々承知していた。王は彼に凶悪犯罪者や魔物の掃討を命じるときと同じ声色でその子供らの様子を見てこいと命じたからだ。
いつでも表情ひとつ変えない彼は、その数年を思い返すときにだけ、ほんの少し頬を緩める。
今更何を聞いたところでどうなることもあるまいに、酔狂だな。
ああ、俺が、毎週何度かあの地下に、生活に必要な物を届けていた。そういえば聞こえは良いかもしれないが、要するに監視役だ。もしも本当にあの子供達をほんのわずかでも思いやるのならば最初から俺を寄越しなどするまい。俺が他に受けている任務が一体どんなか知っていれば一も二もなく納得するだろう。…それ以前に、普通の神経をしていれば、そもそもあんな場所に子供をやることなどできないか。
気温は調節されているという話だったが、薄ら寒いのは日が差さないせいか。太陽とも月とも違う、燐のような蒼い明かりに照らされた死んだ街だ。しんとして、風も吹かず、生き物の影ひとつ無く、葉を茂らせた植物にさえ生命の気配が感じられず、日々何の変化もなくただ時間だけが流れていく――たとえ食いっぱぐれたスラムの子供だって、寝床と食い物が保証されていようと、三日と保たず逃げ帰る。そうでなければ気が狂う。そういう場所だった。
あんな場所で暮らして、人間で居られたのが奇跡だ。俺は時々不思議に思う。星見通り双子の片割れが闇に呑まれることを恐れたのなら、陛下は、何故あの子供を殊更に狂えと言わんばかりの蒼い薄闇に放り込んだのだろう。もしかしたらいっそ魔物にしてしまいたかったのかもしれない。殺せと命ずる大義名分を得るために。
だが皮肉な話だな。地下で過ごした日々の最後まで、魔に堕ちると言われた片割れは人で有り続けた。素直で明るい、良く笑う、呆れるほどただの子供だった。
……俺が笑うのがそんなに不思議か?
まあ仕方のない話か。自分が一体どんな印象を持たれているか位知っているさ。だからどうということもない。誰を頼ることなく関わりもしないのならば何処の誰にどう思われたところで何の支障も無い。そうやって生きてきた。自分が力尽きるまで雇い主の命令を聞くだけだ。それだけで人生は終わってゆくんだと、俺は思っていたんだ。
剣を教えて欲しいとシャルスに言われた。手紙を送り届けていたのもそうだが、稽古をつけていたのも命令じゃあなかった。当たり前の話だろう。寝転がっていることしかできない赤子の時でさえ陛下はシャルスを凄まじく嫌悪したと聞いている。剣術を学ばせるなど許可するどころか、俺がもしシャルスの希望を報告すればそれを理由に処刑してしまってもおかしくなかった。何故そのときシャルスの望みに構わないと返したのか、俺は理由を覚えていない。断る理由はいくらでもあったが、承諾する理由なんて無いはずだった。
何故、俺は、駄目だと言わなかったのだろうな。
あの子らが地下にやられて一年もした頃か。ノイエ…ああ、本当は敬称をつけるべきなんだろうが、当人がノイエで良いと言ったのでな、その癖が抜けない。ノイエには聞こえないように、シャルスはこっそり遠慮がちに言ってきた。自分が何故それを受けたのかは今でもよくわからないが、何故シャルスがそんなことを言い出したのかは何となくわかる。
あれは人を傷つける力ではなくて、人を守る力が欲しかったんだ。
力なぞ皆同じ? その通り、どんな言葉で表そうと力というのは剣にしても魔法にしても結局は何かを攻撃し破壊し傷つける能力以外の何物でもない。だが何のためにその力を得たいと願うか、は違う。そうだろう。
――あいつが、人を殺すために力を得ようとしたことがただの一瞬でもあったと、思うか?
否だ。
あの日あのときあの場所で、素直で善良なばかりだったあの子供が手にしていた力は、確かに人を殺すのに十二分なものだったが、自分を守り慈しんだ人間に報いたいがためだけに得たものだった。自由になれるその日に、何も出来ないまま途方に暮れることのないように。いつか守られる側ではなく守る側に立てるように。
俺は人の手に恵まれなかった人間がどれほど他人に残酷になれるか知っている。愛されることが無ければ愛することもわからない。痛みばかりを強いられれば満たされる快さもわからない。勿論それを自分より人に与える喜びも。
あいつには他に誰も居なかった。人の中で育てられた動物がけして同胞の輪に戻れないように、側に誰一人居ないままならあいつは本当なら人にはなれないはずだった。
ノイエリーフェがいなければ、あいつはきっとずっと人間の形をした作り物のままだったろう。
闇の奥に閉じこもることを強いられたあいつに、最後まで、復讐のための力が欲しいとは願わせなかった。他に誰も何も手の届かなかった子供が優しく素直であれるだけの喜びを、たった一人で与え続けた。
それこそが、ノイエの、神に愛されたと言われた力より、何より奇跡だと、……俺は思う。
ときどき思い出す。同じような背丈、同じような髪の色をした子供を見るたびに、よく似た声を聞いた気がして振り返るたびに、二人が笑っていた顔を。二人の背に広がるのはいつもあの蒼い昏い闇で、その場違いな笑顔に、息が詰まる。
あんな闇の中でも笑っていられたんだ。
この明るい光の下を、誰はばかることなく二人歩けたら、どんなに幸せそうな顔をしただろう?
それは、そんなに大それたことか? 数え切れないほど人を殺してきた俺でさえ叶うのに?
何も、してやれなかったことだけ思い出す。
何かしてやれたんじゃないかと何度も考える。
おかしな話だ。魔物よりも人でなしと言われた俺が、いつまでたっても小さな子供二人のことを忘れられない。騎士団の奴らが聞いたら目を白黒させるだろうな。
何故? さっきも言ったが、俺にだってわか……ああ、――名前を、呼ばれたからかもな。
どうしてそれだけのことでって、言ってもどうせ無駄だろう。お前には理解できまいに。
シャルスなら、わかるんだろうが。
不思議だよ。俺は、あんな場所であの二人が人でいられたことが奇跡だと言ったけれど。
人の住む場所ではありえない闇の中が、…あいつらと過ごしたあの地の底が、俺も、一番人らしくいられた気がする。
そんな――気が、する。
皇太子ユリスファータもまた、幽閉され過ごす弟の存在を知っていた。
彼はほとんど会ったこともない弟について話すとき、捜し物を見つけたときのようにかすかに笑う。
ちゃんと顔を合わせたことは、一度しかない。
まだ弟が外れの塔にいたころに、アナイスに連れられて何度か様子を見に行ったことはあったが、いつも遠目に見るだけだった。自分とまるきり同じ姿をしているものを見るのは、何だか不思議な気分だったよ。私と弟は、目の色が互い違いなんだ。まるで金と青の二対の目を、二人一つずつ分けたように。だから余計、鏡を見ているようだった。写し身といおうか。
何故弟の存在を知っているか? 確かに父上は私に弟のことを教えようとはしなかった。だが、曾祖父も祖父も、そして父も金の両目を受け継いできたのに、私は何故片目だけなのか、どうしてもう片方は母譲りの青なのか? 王城に出入りする貴族達でさえも実は双子だったのではないかと陰で噂するほどだったのに、私が疑問を持たないと思うか? ノイエリーフェがまだ明るい内から早々に退出するのも変だと思っていたよ。まあそれは、単にもっとノイエリーフェと遊んでいたいという幼い私の我が儘も多分に含んでいたのだがね。
父上に何度尋ねても納得できる答えをくれないので、私は聞く相手をアナイスに変えた。アナイスはあの通りの鉄面皮だから、表情を変えもせずに、弟など存在しない貴方は唯一の王位継承者だと言い切った。何度でもだ。だが父上がね。私がその問いを投げかける度に動揺が透けて見えた。だから彼らは何かを隠しているに違いないと私は確信していた。
ある日、ノイエリーフェは熱を出して伏せっていたのでアナイスだけがやって来た。偶然の事だがちょうど部屋には他に誰も居なかった。これ幸いと私はテーブルの上にあった護身用にもならない小さな飾り刀を鞘から抜いて、自分の青い方の目に突きつけて彼に言った。
私が正真正銘唯一の王位継承者だというのにこの青い片目が故にくだらない噂が絶えないのならばいっそこの目を潰して金の義眼でも入れれば良い、そうすれば貴族どもも黙るだろう、と。
支離滅裂というか、無茶苦茶を言ったものだと思う。まさに子供の癇癪だ。けれどあのとき私は、それでもアナイスが答えなければ、本気で片目を潰すつもりだった。それが伝わったのだろうな。アナイスは私の目を見て、それから瞼を伏せて諦めたようにため息をついて、わかりました、お教えします、ですがこのことはそれが誰であっても、国王陛下にも秘密ですと答えた。
ノイエリーフェに? ああ、いつも仏頂面のアナイスより、ノイエリーフェの方がものを尋ねやすいのは確かだな。…一度もない。ノイエリーフェに弟について尋ねたことは一度もない。困らせたくなかった。本当ならば何があっても教えられないことだとは、私は理解していた。父上が頑として話そうとしないことを、ノイエリーフェが話すわけにはゆくまい? 私がどんなに尋ねても、彼は弟なんて居ないと答えるしかなかっただろう。私は、ノイエリーフェを困らせたくなかった。優しい彼に、嘘を吐かせたくはなかったのだよ。
アナイスならかまわなかったのかと言われれば返答のしようもないが。彼には悪いことをした。
弟の様子を見に行ったのは、それからしばらく後か。塔の裏手の小さな庭で、弟はノイエリーフェと遊んでいた。私と同じ顔をして、同じような背丈で、違うのは服と、目の色の組み合わせと、それから――笑っている顔だった。
不謹慎かもしれないがね、私は、弟が羨ましかった。
誰からもその存在を知られず、日当たりの悪い城の外れの塔で過ごすのは、それは不自由だし哀れと皆言うだろう。私とてあの生活自体を幸せだとは思わない。
だが、私も自由と言えるかな? 豪奢な調度品で埋め尽くされた部屋で仕立ての良い上等の服を着て召使いに至るまで相当な身分の者達に囲まれて、いつも誰かが傍にいて、自分の思うことを思うままに口にすることもできない、会いたい人に会いたいときに会いに行くこともできない、それは果たして自由か?
あの日見た弟のように笑ったことは、私は無い気がした。誰に見られるでもなくどう見られるかを気遣うわけでもなく笑うことは、私にはできないから。
贅沢だと、わかっているよ。無い物ねだりだ。
でも、私は、弟が羨ましかったんだ。
弟に本当に誰も居なかったなら、そんなことも思わなかったのだろう。けれど弟にはノイエリーフェが居た。誰もが賞賛する能力を持って、輝かしい未来を約束された彼は、そんなものに何一つの執着も見せずに弟と行った。
弟はノイエリーフェが好きだった。心の底から愛していた。その相手にそれほど大切に思い返されたのなら、弟は幸せだったと言えないか。
それは、私が自分の我が儘を正当化したいための詭弁かもしれないが。
私は他のものは何でも持っていたのに、弟が持っていて私が持っていないものが羨ましかったんだ。弟が幸せだったと信じたいのは、他に何もない弟のたった一つの大切なものさえ自分のものにしたかったと思う自分の薄情から目を背けたいからなんじゃないかと思えてならない。
子供じみた我が儘だよ。
私はノイエが好きだった。厳しいアナイスよりも、優しい彼が好きだった。まだ小さな私には、しょっちゅう小言を投げてくる五月蠅い相手よりいつもにこにこ笑っている相手の方が良いというただその程度のことだったけれど、ずっと自分の傍にいるものだと、信じていたんだ。
けれど彼は往ってしまった。
ずっと聞けずにいることが一つある。言えばアナイスはきっと悲しい顔をするから、墓の下まで持ってゆくつもりだ。 もし、弟ではなくて、私が、あの外れの塔に閉じ込められた子供だったなら――ノイエは、私を選んでくれたかな? 問いですらないな、馬鹿な、繰り言だ。
…時々私は考える。きっと私だけでなく、他にもたくさんの者が何度も考えたことだろう。
私たち二人がもしも一人で生まれてこられたなら、どれほど幸せだったろう。私も弟も。他の皆も。そうしたら失わずに済んだものがたくさんたくさんあったのに。
神の御子とやらいう二つ名が付く者が言うことではないがね、神は、何故私と弟を二人に分けた? それで不幸せは数え切れないほどあったけれど幸せなんて一つもなかった。
アナイスは言ったよ。神に仕える者であるはずの彼が。
どうぞ星読みなどに寄らず神の寄り童としてではなく貴方が貴方自身の心において国をお治めください、と。
あの厳しくも真面目な司祭が、神に祈ることを諦めるまでに、どれほど絶望したか、私はわかる気がする。
私は神ではない、神の子でもない。並よりは優れた力を持って生まれて、けれど無力に嘆き、手に入らないものに腕を伸ばして嘆く、ただの人間だ。
だからこそひとの国を治められるのだと――私は、信じているのだよ。
長くなった。
だが、考えてもみよう。これは彼らの真実を識るほとんど全ての人間の言葉を集めたと言って良いのである。
人間が数年生きて、たったこれだけの者としか関わりを持たないなどということがあるだろうか。
誰であれ答えは否だろう。
彼らの数年間を識る者は、本当に少ない。
そしてその数少ない人々は――彼らの過ごした日々を目の当たりにしても、彼らのその日々が幸せなばかりではなくともそれでも確かに幸せだったことを痛いほど理解していても尚――皆、二人を哀れんだ。
口を揃えて言う。
もしも普通に育てられていたならばもっと違う道があった。
そうでなければ、出会わないほうが幸せだったのだ、と。
前の話アップから気付けば二週間以上
どう考えても冬コミやら一月のラグフェスに全編間に合わせるのは無理ですが
別のDOP本の原稿やりつつ悪あがきしようと思います orz
2007年12月10日 15:33
