RagnarokOnline ...longing/love
03.穏やかな不穏
育つ子供、育つ不安
国始まって以来の秀才だという評価をアナイス=クローデルが受けたのは神学校での過程を全て修める少し前のことである。ちょうど十七の年だったか。対する末の弟は今やっと十一になろうかという程度の子供だ。しかし教師達から受けるその賞賛たるや、卒業間際の長兄すらも凌ぐものだった。
その能力自体は遙か年上の長兄にはまだ劣るものの、習熟していく様が常軌を逸している。並の子供が一月ほど修練を重ねてようやっと使えるようになる魔法を、一週間もかからずに教師すら舌を巻くほどの正確さで完成させてみせたし、座学はどれもこれも当然のように完璧だった。教えれば教えた分に飽きたらずそれ以上に吸収し習得していく様に、教師達は皆感嘆した。教えることが何も無くなるまで、そう長い時間は必要無いだろうとも言った。そしてクローデルの末子ノイエリーフェは、午後の全ての講義を免除されるに至った。
それはノイエが先だって誕生した幼い王子の遊び相手を務めているというのも無論大きな理由であったが、同時に、全ての講義を受けさせるのは無理だろうという教師の見解があった。飛び級とて限界がある。十八、九の大人に近い少年達にたかだか十やそこらの子供を混じらせるわけにもゆかず、さりとて同じ学年の(とは言ってもすでに飛び級している彼の同級生は二つ三つ上の子供達がほとんどだったが)生徒の習熟度合いとは差が有りすぎる。神学と歴史が中心の午前だけは一緒に受けさせ、午後は免除することで、生徒としての体裁は保ちつつその差が少々は縮まらないかという目論見も多少はあった。実際はそこまでしても、差はどんどん開いていくばかりなのだったが。
教師達は口々に、時にまるで畏れのような感情をもってノイエの優秀を語った。神の流れを汲む絶対の存在として君臨する王族への畏怖とも何処か似ていた。度を超えて秀でた者に対し、人は妬みよりは振り切れた憧れ、あるいは恐怖を抱く。だが、幼い子供がひたすらに、見ようによっては追い立てられるように力を手に入れてゆく様を、最も怖れていたのはその家族だったかもしれない。
冬の日は短い。まだ時刻は夕方なのに、あたりはもう真っ暗だ。アナイスはかすかな魔法の灯りで足下を照らしながら、弟の手を引いて帰路についた。シャルスが幽閉されているのは北の外れの塔で、昔は見張りに使われていたという話だが、先代の王が即位した頃からはもうただの廃墟に等しく、近寄る者は誰もない。灯りはおろかろくに道すら見あたらず、おまけに広範囲に渡って特殊な術がかけられていた。進入不可能にする、というようなものではない。厳重な鍵は、内に隠した何かの存在を、術に触れた者に予感させることになる。彼らの父、最高司祭アーネスト=クローデルが施したのは、人の注意を無意識にそこから逸らすというものだ。たとえば道に石ころが落ちているとしよう。雑草でも良い。見えていないわけではない。触れることも蹴り飛ばすこともできる。だが人はそれに別段注意を払わない。それと似ている。人はこの針葉樹の林やその奥にある塔を目にしてはいても、馬車道に転がる石ころ一つほどの価値もそこには見出せないように意識を縛られているのだ。だから人はそこには近付けない。近付こうという意志を持てない場所に、人が向かうことは無い。
彼らが塔にたどり着けるのは、アナイスが術の境界上でほんの一瞬だけ見えない障壁に穴を開けるからだ。それは術の存在を知り、その構築を熟知した上で、別の結界を干渉させることで可能となる。言うは簡単だが実行するのは容易くはない。群を抜いて優秀と言われたアナイスでも、父から再三の手ほどきを受けて、ようやく身につけることが出来たというほどには難しかった。
今、解呪を行えるのは、術者を除いてはアナイスただ一人である。それ故にノイエは兄の介添えが無ければシャルスの元へ行くことは叶わない。しかしおそらく、そう遠からず、ノイエは兄の助けを必要としなくなるだろう。彼は勿論治癒魔法も戦闘補助の術も人並み以上に扱えたが、何よりも得意としているのが、結界術である。空間を自在にたわめ、歪ませ、繋げ、そこに力を呼び込む、術としては最も難しい部類に入る筈の術法に対し、幼い弟は明らかに兄を越える才能を示している。
アナイスはかすかなため息を吐き、自分の胸のあたりにも背丈が届かない弟を見やった。ノイエリーフェは少し小柄な可愛らしい子供だった。その身体の何処に、大人でさえ畏れさせる程の能力を抱え込んでいるのか。今は酷く眠そうにしている。しきりに欠伸を繰り返し、涙をこぼし、目をこすっていた。
お前いつもあんなに遅くまで起きて居るから眠いのだよ。勉強はそれは大事だが、もういくつも飛び級しているのだ、躍起になって取り組むこともあるまいに。
苦笑を浮かべて呟く兄に、でも兄上、と、ノイエは手の甲でまなじりの涙を落としながら答えた。
あの子は泣くのです。帰っては嫌だと言って。
…ずっと一緒にいることはできなくても、学校を早く卒業してしまえば、少しでも長く遊んであげることは、できるでしょう?
曖昧な肯定以外に、アナイスは返す言葉を見つけられなかった。
シャルスは泣くようになった。クローデルの次男と三男がやらかした、他愛ない悪戯が発端の話である。
末の弟(つまりはノイエのことであるが)を人一倍かまいたがる二人は、最近めっきりその機会が少なくなったことを大層不満に思っていた。ノイエは朝は早くから学校に行き、それが終われば兄王子の相手をし、次は弟王子の元へこっそりと顔を出す。家に戻れば食事を終えるや寝るまでひたすらに勉強である。双子がもしも共に暮らしていればまだ残されていただろう余裕の全てを、存在自体隠蔽された弟王子のために費やしているのだから、他に何も出来なくなってしまうのは自明なのだが。
そんなある日、二人は親に用を言いつけられた。シャルスの元へ届ける荷物がどうにもアナイスとノイエだけでは持てそうに無かったので、荷物持ちとしてついて行けということだ。シャルスの存在が存在なだけに、使用人をつけるわけにもいかない。故に普段は滅多に随伴を許さない兄弟二人を行かせたのである。
ところでこの二人、幼少から世話係の手を焼かせるのにかけては枚挙にいとまがない悪戯好きだった。それを常からノイエを取ってしまったと半ば八つ当たりに近い不平を抱く相手の元へやってしまってただで済む筈もない。案の定と言うべきか、二人はシャルスを(そこまでやるつもりは二人には無かったのだが)大泣きさせるに至ったのだった。
悪戯自体は他愛もない。片方が一緒にいたノイエを適当なことを言って連れ出し、シャルスが一人になったところでもう片方が大きな布を何枚も被った姿でお化けのふりをして脅かすというものである。文字通り子供だましの悪ふざけだが、相手が悪かった。シャルスが目にしたことのある年近い子供というのは、ノイエ一人だ。そしてノイエは、その手の悪戯とはおよそ縁が無い。結果、シャルスは目の前に突如として現れた初めて目にする大きな布の固まりを、本当にお化けなのだと思い込んだ。さらに悪いことには、入れ違いに出て行ったノイエはそのお化けに捕まえられてしまったのではないかという、五つやそこらの子供にしては上等だが、その場の状況としては見事に最悪を行く判断をした。
大好きなノイエがお化けに怖い目に遭わされていると思ったシャルスはこれ以上無いというほど泣き喚き、騒ぎを聞きつけ慌てて部屋に戻ってきたノイエに力一杯抱きつくや、疲れて眠ってしまうまで大泣きを続けたのだった。
それまでシャルスはノイエが帰る時間になると、ではまた明日、というノイエの言葉に対し、無邪気に笑って手を振った。彼にはずっと一人が当たり前であり、そこに淋しさを感じるには余りに目にする人間が少なすぎた。シャルスが接したことのある人間といえば、生まれたときから世話係としてついている一人の老人、数えるほどしか会ったことのない母、様子見と共に衣類やら食料やらを持ってくるアーネスト(赤ん坊の頃は父と勘違いしていたこともあった)、ごくたまに足を運んでくるいつも不機嫌そうな男(こちらが実の父であり、後にそう聞かされることになる)、ノイエに会う前から時折顔を出したアナイス、その片手で足りる人数が、彼の世界の全てだった。世に他に人間が存在することを彼は知っていたが、たくさんの人間に囲まれて過ごす感覚はわからない。「淋しくない」という実感が無ければ、相対的に「淋しい」とはどういうものかを理解することも出来ない。ノイエが遊びにやってくるようになっても、一人で居ることに対する淋しさを、彼は長らく自覚することはなかった。ノイエはいつも同じ時間にやってきて、同じ時間に帰っていく。夜が来れば朝が来て、朝が来れば昼になりやがてまた夜が来るように、毎日同じことが繰り返されるものだと、シャルスは何の根拠もなくそう信じ、ノイエが居ない時間はそれが当然のものとして一人で過ごした。
二人の悪戯は、意図せずしてシャルスのその確信を根底から揺らがせたのだった。あの扉を出て行ったノイエが二度と戻ってこない可能性を、シャルスは初めて意識した。朝が来て着替えて食事をして、いつもの時間になってもノイエは来ない。何度寝て起きてもやはり会えない。その考えに、幼い子供は恐怖した。
いやだ。かえっちゃいやだ。ここにいて。かえらないで。
目の前から愛する者が消え去る不安と孤独を、シャルスは遂に自覚した。我が儘らしい我が儘を言わなかった幼子が初めて口にした懇願に、ノイエは絶句するばかりだった。ずっと傍にいてやりたいと彼も思っている。しかしだからといってどうすることも出来ない。それからシャルスは別れ際に泣くようになった。何処にもいかないでとシャルスが泣き喚く度にノイエは困り果てた。アナイスは弟二人の軽率を徹底的に叱ったが、彼らをこってりと絞ったところで今更どうにもならず、むしろある意味では幼い子供としては今のほうが正しい有りようとも言える。帰宅する前には泣くシャルスを宥めるのが常となり、ノイエが家にたどり着く時間は少し遅くなった。
ある日、そろそろ帰らないとと口にするや否や泣き出したシャルスに、ノイエは自分の耳飾りを一つ外して差し出した。シャルスはしゃくり上げながらこれは何と尋ねる。丸く削りだした小さな水晶を葡萄の房のように連ねた耳飾りは、もうだいぶ前の誕生日にノイエが両親から贈られたものだ。魔除けのまじないの意味もある。動くと揺れてしゃらしゃらと鳴った。聖職であることを示す十字架をかたどった銀細工と共に、彼はそれをいつも身に着けていた。自分より小さなシャルスの耳に合わせて金具を調整しつつ着けてやりながら、ノイエは自分の耳に下がったもう片方を見せた。
ほら、おそろいですよ。
そう言ってノイエが笑うのに、シャルスはつい見とれる。
怖いものから守ってくれます。私が居ないときは、それを私だと思って待っていてくださいね。
優しく頭を撫でられて、シャルスは目の端で今にもこぼれそうになっていた涙を堪え、小さく頷いた。幼いながらに大好きな相手を困らせている自覚はあった。ただ自覚したからといってどうにもならなかったのだ。泣き喚けばノイエをずっと傍に置いておけるとシャルスが思ったことは一度もない。不安に駆られてそうせずに居られなかっただけの話で。
シャルスは耳に手をやった。ひやりと冷たい石はノイエの手のあたたかさや柔らかさとは比べるべくもなかったが、それでももしかしたら明日はもうノイエは来ないのではないか、そもそも今までのことが全て夢だったのではないかという、止まるところを知らず湧いて出る疑念を和らげる術にはなる。
また明日。微笑んだノイエに抱きついて、小さな声で、シャルスはごめんなさいと言ってまた泣いた。困らせてごめんなさい、おねがいきらいにならないで。今度はノイエが息を詰まらせる。シャルスが泣き止むまでノイエはその背に腕を回し、謝ることなど何も無い、嫌いになどなる筈もない、だからどうか泣かないでと繰り返した。
その日以降、帰り際にシャルスがこの世の終わりのように泣くことは無くなった。それでもやっぱり悲しそうな顔をして、時には涙をこぼした。声を限りに泣き叫ばれるよりも返ってノイエは胸を痛めた。一緒に居られる時間を少しでも延ばしてやりたい。だが一日の時間は限られているし、ノイエが相手を務めるのはシャルスだけではない。皇太子として認められた兄王子、ユリスファータの遊び相手もまたノイエだった。
彼は自分のために時間を使うのを止めた。学校に行く時間を削れたらもう少し長く時間が取れる。家に居る間は必死で勉強に励んだ。午後の講義を免除されても尚それは続いた。既習の範囲であろうがなかろうがおかまい無しに、彼は父や兄たちの書物を引っ張り出してきては片っ端から紐解いた。教師達はノイエの才能を口々に賞賛する。だが才能だけでは不十分である。彼の常軌を逸した能力は、同じく常軌を逸した努力によって支えられている。それを正しく理解している者は少ない。
ほら、おぶってやろう。
欠伸をかみ殺すノイエに、アナイスはかがんで背を向けた。でも兄上も仕事でお疲れでしょう、そう言って遠慮するのを、気にすることはない、少なくとも私はお前よりは大人で体力もあるのだから、と促してやっと、ノイエは大人しく兄に背負われた。痩せた身体は酷く軽い。
家まで眠っていなさい。
言葉をかけ、アナイスはゆっくりと歩き出した。空には星が輝いている。ノイエが兄の首に回していた手からはすぐに力が抜け、かすかな寝息が聞こえ始めた。夜風に紛れて消えてしまいそうなその呼吸の音を聞きながら、アナイスは細く長く息を吐いた。
(まるでお前は生き急いでいるようで)
(それが私も父母も他の兄弟達も、怖ろしくてならないのだよ)
家族の誰も口には出さない。だが皆思っている。自らの身を顧みなくなっていく末っ子が悲しかった。年相応の懐っこさや笑い方を、忘れてしまう日が来ることが怖かった。そして何より、幼い二人の境涯を目の当たりにし、それを不憫と思いながら、彼らの悲しみを除くために何もしてやれない自分たちが口惜しかった。
本当に自由が叶うのか、それも不安の一つである。父から聞いた、王子誕生のときの王の様子は、父の誇張では無かったのだと、アナイスは城に務めるようになってから実感していた。弟王子のことになると、王の態度は豹変する。十五の年を数え国を捨てれば自由を許すと、王は言った。だがその日が来ると確信を持つことは、アナイスにはどうしても出来なかった。一人では何も出来ない赤子のときでさえあの狼狽ぶりだ。日一日と成長し、一つずつ出来ることを増やしていく度に、王の不安は増してゆく。シャルスは賢い。そして王家の、神の力の流れを汲む者であることは、その金の片目が示している。人の指を掴むのが精一杯だった小さな手は、剣でも魔法でも思うがままに振るえるようになるだろう。それは自分を殺すための力を手に入れてゆく様のように王の目には映るに違いない。王はそうやってあの子が育っていくのを、黙って見ているだろうか?
逃がしてやるべきだったのだと、アーネストは悔やんだ。そうでなければいっそ、何もわからぬ赤子の内に殺してしまったほうが、幸せだったのだろうかと、ノイエの耳にはけして入れぬように時折嘆いた。弟王子のあの処遇に、アーネストは誰よりも責任を感じていた。あの日王に食い下がるのを早々に諦めて、何か他の手段を講じていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。その後悔がいつもアーネストを苛んでいた。それを目の当たりにするアナイスもまた、思いは同じだった。
今にも崩れ去りそうな危うい平穏の上で自分たちは怯えながら日々を過ごしている。壊れるのは明日かも知れない。明後日かもしれない。あるいは一年後かもしれない。日々積み重なってゆく不安に比べて、全てが無事に終わるという希望の何とか細いことか。
素直で愛らしくもどこか作り物めいて見えた聞き分けの良すぎる幼子は、人の手を求めて泣くことを覚えた。誰かを愛することを知ったとも言い換えられる。血も涙もない悪魔ならいざ知らず、人を愛し思いやることのできる優しい子が、実の親を殺すことなどあり得ないと、アナイスは信じたかった。
ノイエは背中でよく眠っていた。家に帰り着けば食事もそこそこにまた本を開くのだろう。アナイスはなるべくゆっくりと歩いた。もうすぐノイエは送り迎えを必要としなくなる。自分が先を急ぐノイエをほんの僅かでも引き留めることができるのはそれまでの間なのだと思う。背中にかかる大したことのない重みが愛おしかった。
帰り際に泣きそうな顔で手を振って見送るシャルスがふと瞼の裏を過ぎった。ノイエを連れて帰る自分は、彼にはきっと鬼か何かのように思えるのだろう。ノイエと引き合わせる前はそれなりに懐かれていたものだったが。アナイスは苦笑する。
二人の幸せを願って止まない。
願うことが力になればどれほど救われるだろう。
星が降るような空を見た。雲一つ無い夜空は、何の答えも返すことは無く、ただそこに横たわっていて、アナイスはすぐに視線を戻した。
優秀な聖職者でありながら、祈ることの無力を、彼は思った。
講義の半分以上を受けることもなくノイエリーフェが首席で神学校を修了したのは十五になる年だった。入学したときの同級の中には、狡いとか家が名門だからだとか陰口を叩く者も居たが、成績を見せられては黙るしか無かった。ノイエが許されたのは、上級学年の試験を受けること、試験で合格した科目については出席が少なくても修得を認めること、それだけだったからだ。ノイエを妬む面々がいざ同じように評価を受けたところで匹敵する成績を出せる筈もない。
元々小柄なノイエは、年上の卒業生に混じると背の低さが一層目立った。創設以来最年少で卒業するノイエを口々に賞賛した人々の中に、列席した両親や兄たちが感じていたのが誇らしさよりも哀感だったことを知る者は居ない。
おめでとうと祝った家族に、ノイエは笑った。彼は笑うことを忘れはしなかった。優しさも素直もそのままに、ただ、嘆くことを諦めた。いっそ泣いて喚いて嘆かれた方が、見ている者はまだ救われたかもしれない。不似合いな厳めしい法衣と何処までも深い諦観を纏って、ノイエは穏やかに笑っていた。
同じ年の秋、王妃逝去の知らせが国を巡った。まだ若くして流行病に倒れた王妃を悼んで国民は皆喪に服したが、彼女が何に心を残して逝ったかは知らなかった。
王妃とは言うまでもなく、ユリスファータの、そしてシャルスの母だ。シャルスを殺せと言った王に、アーネストと同じく真っ向反対した人間でもあった。それは人として当然の感情だ。自分の腹を痛めて生んだ子を、不吉な先読みがなされたからといってはいそうですかとあっさり殺せる母親は居ない。
王妃はアーネストの妻ベアトリセの姉であり、クローデルと縁続きの貴族の出だった。つまりは後ろ盾となる貴族の地位はそれなりのもので、いくら王といえど、無碍に扱うわけにもゆかない。殺したいほど疎ましい子供を城の外れとはいえ留め置いたのは王妃が居たからでもある。彼女は子供を自分の目が全く届かなくなる場所にやることを頑として許さなかった。
その王妃が逝った。追悼の鐘が鳴り響く中、アーネストとベアトリセは肉親の死の悲しみに暮れながら、同時に王の暴挙を止める枷が一つ失われたことを恐れた。しかしてその不安は的中した。
首都北東には、魔法都市ゲフェンと呼ばれる魔法士達が数多く集う街がある。グラストヘイム帝国領ではあるものの、ある程度の自治を許された、首都に近い賑わいを見せる大都市だった。
その近くに、先々代の国王の頃発見された地下遺跡がある。高度な技術によって建造された都市の遺跡であり、一般にはその存在を知らされず密かに研究が進められていたが、ここ十年ほどは閉鎖されたままだ。研究を引き継いでいた錬金術師が事故で急逝してから、後継が見つからず頓挫しているのである。
王は、シャルスをその地下深くの、僅かも日の差さぬ場所へ追いやってしまうことを決めたのだった。
あんまりだと思っても、アーネストもベアトリセも最早何も言えなかった。下手に反対しては王が次に何を言い出すかわかったものではない。
十五の年まであと四年と少しを残してさらに悲惨な状況に置かれることになったシャルスは、ある新月の夜に、ひっそりとゲフェンへ移された。共に行くことを許されたのは、世話係の老人とクローデルの使用人、そして自分も行くと言い張ったノイエリーフェだけであった。
神学校にまだ在籍していれば、卒業までは、プリーストの資格を認められるまではと、無理矢理引き留めることも可能だったかもしれない。だがまるでこの不運を予期していたように、ノイエはその年の春にすでに課程を終えている。アナイスは自分を代わりに付けるよう王に再三申し入れたが、王は当人が行くと言っているのなら好きにさせてやればよいと全く取り合わなかった。お前はクローデルの跡取りでもあるのだから万一があってはいけないとも付け加えた。それならノイエには何かあっても良いのかという言葉を、アナイスはすんでの所で飲み込んだ。ノイエは同盟国の大学へ留学し、その間ユリスファータの従者はアナイスが務めることになったとされた。
幼い子供にこうまでの理不尽を科して守るべきものとは、一体何だろう。
答えも見つからないまま従うしかない彼らは、ただ残りの日々がもうこれ以上何も起こらないまま過ぎ去ってくれることを願うばかりだった。