RagnarokOnline ...longing/love
02.交錯
ゆめか うつつか
ふうっと、目が覚めた。
夢を見ていた。小さな子供の笑い声が、耳に残っている気がした。夢とは眠りきらない自分の頭が見せるもので、多かれ少なかれ自分の記憶や願望が反映されるという。が、夢に出てきた景色も人間もおよそ自分が知らぬものだった。想像の産物にしては奇妙にはっきりしたイメージを持っていたように思えるのは、気のせいか。
まだ色濃く残る全身の怠さと眠気に意識は呆としていたが、しかし自分の置かれた状況を、しばしの睡眠を挟んでも尚ヘルデノイツは忘れてはいなかった。だから彼は、覚醒してすぐに、疑問を覚えた。痛みらしい痛みを感じない。半分潰れた足を筆頭に、擦り傷切り傷打撲にまみれた全身が、痛まない筈がないのに。
ゆっくりと身体を起こしてみる。そこかしこに、とりわけ左足に違和感は残っていたが、苦痛と言うほどのものは感じなかった。それは傷を治癒の術で回復させたときの感覚に似ていた。
治癒の術は、本来ならば到底あり得ないような速度で傷を回復させる。術を媒介に魔力が快復力を促進しているのだが、身体に負担はかかる。元々体力のある者はまだいいが、快復力に乏しい者に対しては、術者の力量との兼ね合いにもよるものの、限界がある。魔法とて万能ではない。代償に魔力石を破壊するような強力な術を除いては、致命傷を回復することもできない。ヘルデノイツはさほど体力に自信のある方ではなかった。先程の負傷にしても、うまく逃げおおせたとして、治るまでにはしばらくかかるだろうと覚悟していた。それが、疲労感自体は激しいものの、傷自体はほぼきれいに消えているようだった。
無論、勝手に治るわけがない。さりとて意識さえ朦朧としていた自分が、治癒の術をかけた筈がない。そもそも、自分のヒールでは、あれだけの深手をここまで回復させることはできないはずだ。
誰が?
ヘルデノイツは訝しげにあたりを見回した。少なくとも今は、付近に人の気配は無かった。はたと思いついて足下に目をやる。埃には自身の足跡だけが残っていた。背筋に寒気が走った。この厚く積もった埃に何の跡も付けずに移動できる人間など居るのか。何者かが居たとして、自分を回復させたということは、敵意は無いと見て良いのだろう。だが姿が全く伺えないのはどうにも薄気味悪い。
くらりと視界が揺れた。身体が怠い。まだ魔法が使える位に回復はしていないようだった。早々にこんな所から立ち去りたいのは山々だが、もう少し休む以外に選択肢は無かった。得体の知れない何かが存在していそうだとはいえ、いつまた魔物が襲ってくるとも知れない先程の惨劇の現場よりは遙かにましである。再び身体をソファに横たえようとして、ふと、脇にあるテーブルに置かれているものが目についた。
華やかさには乏しいが品良い装丁を施された、かなりの厚みの本だった。意匠からして聖書ではないかと思われる。例によって埃が積もったその本を、彼は手に取った。聖職に進んだ者がまず最初に与えられる教典である。信仰する神や教義により少々の内容の違いはあるが、神聖魔法の教本と並び、最も慣れ親しんだ、あるいは親しまざるを得ない本といえよう。地下遺跡の奥深くに放置された本に対する薄気味悪さよりも、気易さと好奇心が勝った。もしかすると、自分の傷が治っていたことと何か関係があるのかも知れないという思いもあった。当然根拠など無かったが。
ぱらりと頁をめくる。それは相当古いものだったが、良い紙を使っているのだろう、そしておそらく日の当たらない場所に置かれていたことも影響して、変色こそしていたものの、さほどの劣化は見られなかった。文字も十分判別可能であった。
中身は言ってみれば何の変哲もない聖書だった。そもそも聖書は神聖言語と呼ばれる古典語で書かれており、それを学んだ人間であれば、どれほど昔のものだろうと、またいかなる国のものであろうと言葉がわからないということは無い。酷く古臭い字体が読み辛かったが、意味は飲み込めた。この聖書も、世界の成り立ちを神話によって記し、神の偉大と栄光を讃え、その教えを示している。見たところヘルデノイツの属する教派と同じく、主神オーディンを信仰の中心とするものの様で、内容は彼の持っている聖書とよく似ていた。いい加減、飽きたな。ヘルデノイツは、そんな聖職者らしからぬことを呟いた。それこそ上司の司祭に聞き咎められようものなら説教が待ち受けている。しかし物語としてそれなりに面白みのある文章だったところで、幾百と無く繰り返して読んだものを再読するのに喜びを覚えろというのも無理な話だ。唯一、この聖書は、挿絵が素晴らしかった。細かな書き込みの美しい版画が数多く挿入されており、聖書ではなく芸術品と言っても通用しそうな程で、見ているだけでも楽しめた。
惰性で適当に頁を繰り続けていたヘルデノイツの指が、本の終盤で止まった。彼の聖書には無い章だった。国の始まりについて記されていた。神の血を引く者が、かつては神のいましところにひとの国を興した、とある。ルーンミッドガッツ王国の話ではない。いや、ヘルデノイツの記憶の限り、ミッドガッツのみならず、現代に続く国でこのような建国神話を持ち、尚かつそれを教典に載せるような宗教国家は無かった筈だ。神学校時代に習った歴史を、うろ覚えの記憶から辿りながら、その章を読み進める。グラストヘイム。かつては世界で最も栄え、今は魔物の巣窟と成り果てた城塞都市を首都とした、遙かな昔の国の名が、あった。
グラストヘイム神聖帝国? まさか。五百年前の国だぞ。何故そんな時代の書がこんな所に残っているというのだ。困惑と疑問が広がる。さらに頁をめくっても、国王が神の子であるとか、その証は金の瞳だとかばかりで、当然といえば当然なのだが、この本が何故ここに数百年も捨て置かれることになったのか、その顛末を察する手がかりになるような記述は何も無い。これを所持していた人間の書き込みでもあればと思うが、それすら皆無である。彼自身の聖書は注釈や補足の書き込みだらけでそれはもう一目見れば自分のものだと判別できるような有様なのだが、この本の持ち主は、余程頭が良いか、そうでなければ別紙にそのような覚え書きをしていたのか、どの頁もまっさらの状態で、折り目一つついてはいなかった。
本というのは所持して開いていればそれだけで傷んでゆくものだ。そしてこの聖書には、古い紙でもはっきりとわかるほど手垢や傷が付いていた。しかしそれだけだった。頻繁に手に取られたのだろうこの本は、他に目立った傷みは何もない。持ち主である誰かは、この聖書をとても大切に扱っていたのだと知れた。ではそれほどに大事にしていた本を、どうして持ち主はここに置き去ったのだろう。
ヘルデノイツは、もう一度改めて室内の様子を見回した。考えてみれば妙だった。何故この部屋には、人が暮らしていた時そのままに、家具の類が残されているのだろうか。別の場所に暮らすことになったのなら家具も、本も、一緒に持ってゆくだろう。この遺跡の地下都市が何故滅びたのかは定かではないが、もし何者かに襲われたのであれば、もっと破壊を極めていても良い筈だ。だが調度はどれも、ただ古びて埃を被っているだけで、物色され破壊された跡は無かった。机の上は片付けられ、本棚には様々な書物がきっちりと並べられており、乱雑さとは無縁だった。薄青い光がどこからとなく差し込む部屋は、静謐ですらあった。
この遺跡はおよそ、七百年前のものと思われると、学者連中が話しているのを聞いたことを、ヘルデノイツは思い出す。さらに疑問が増す。七百年前に滅びた都市に、まるでそこに暮らしていた人間の持ち物かのように、五百年前に栄えたグラストヘイムの聖書があるのは一体どういうわけだ。
膝の上に置いた聖書に目を落とす。建国神話が最後の章だった。読み返したところで何か目新しいことがわかるでもなし、と、本を閉じようとしたとき、何かが滑り落ちてかすかな甲高い音を立てた。どうやら最後の頁と表紙の隙間に挟まれていたものらしかった。拾い上げてみると、精巧な銀細工が施された栞だった。天使の羽をモチーフにしたと思しき模様を丁寧に切り出した薄い銀板に細い鎖が繋がっており、その先には小さな紫の貴石があしらわれていた。
元の場所に挟み直そうと、彼は最後の頁をめくった。そこには、この分厚い本でおよそ唯一と言えるだろう手書きの言葉があった。
我が愛し子に幸せあれ。
それは神聖言語で書かれていたが、祈りの文句の一節というよりは、その言葉のままに、誰かの幸せを願ったものに思えた。すぐ下には、整った筆致で名前らしきものが記されていた。ノイエリーフェ=クローデル。今ではあまり見ない綴りだが、おそらくそう読むのだろう。そしてその更に下に、シャルス=アマデイア、とある。もう一方の名前とは違った、幾分柔らかく幼めの、しかしやはり美しい筆跡だった。
「…ノイエリーフェ、…ノイエ?」
それは彼の知らない名前だった。ついさっきまでは。
金髪の少年の姿が脳裏を過ぎる。右は青、左は朱の、不思議な瞳が驚きに揺れる様が、鮮明に思い出された。少年は、その名で、自分を呼んだ。
そしてまた、夢の中で、あの幼い子供もそう呼ばれていなかったか。
一瞬、自分が今居る場所が現実だという確信が、揺らぐような感覚を覚えた。
夢の子供の名前に関しては、寸前に聞いた少年の声が記憶に鮮明だったからそれが無意識に出てきたのだと言えなくもないが、この手書きの名前は。偶然の一致。それだけだろうか。この闇を住処とするあの少年が、情け容赦の欠片も無く相手かまわず殺戮を尽くしながら何故か自分を見逃したとき口にした名前がここに在るのは、本当に偶然の一致なのだろうか。
愛し子に幸せあれ。それは夢で、子供の兄が口にした言葉でもあった。どうか幸せにと彼は幼子の名前と共に祈るように呟いた。言葉こそ違えど、丁寧に記された祈りの言葉と名前に込められた願いは同じだろう。ふと思う。もしかしてさっきの夢は何処かで実際に在ったことではないか。もっと言えば、あの子供こそが、この聖書の持ち主ではないだろうか。本来夢とはいかなるものかを考えれば、それはまさしく荒唐無稽と言うに相応しい思いつきではあったが、どうにもそう感じられてならない。
また視界が回った。疲労感にまかせて再びソファに逆戻るよりも先に、聖書を閉じて元在った場所に戻す。それが先程の少年に所縁のものか、夢の子供の持ち物か、あるいは何の関係もない別人のものかはわからない。しかし、この聖書を、祈りの言葉と共に送った人間が持ち主の幸せを願っていたことは事実だろうし、送られた人間がこれを手放す時まで大切にしていたこともまた伺えた。そのような本を、ぞんざいに扱うのは気が引けた。
ソファが柔らかい。慣れてしまったのか、埃っぽさももうあまり気にならない。怠さに鈍った頭の奥から、アマデイアとは、興国から滅亡まで十八代の長きにわたってグラストヘイム神聖帝国に君臨した王家の名のはずだという記憶を引き摺り出すと同時に、ヘルデノイツの意識は再び眠気に押し潰された。
金髪の小さな子供が居た。後ろ姿なので顔はわからない。地味ではあるが質の良さが一目でわかる布地で仕立てられた服を着たその子供は、絨毯の上に座り込んで、人形で一人遊んでいる。年の頃は三つか、四つか、普通それくらいの幼子というのは所狭しと走り回っては何でもかんでもに興味を持ち、周りの大人を質問攻めで困らせるのが常であるが、この子は酷く大人しい。声を上げるでもなく、動き回るでもなく、手に持った人形で静かに遊んでいるばかりだ。それは手がかからない良い子というよりは、全く子供らしくない子供に見えた。
この年頃の子供を一人置いておくことなどまずあるまいに、今、部屋にはその子一人しか居ないようだった。しんと静かな部屋で、窓も大きくなく、暗くは無かったが何処か陰気さを漂わせていた。子供の柔い色合いの金髪だけが不似合いに明るい。
扉の開く音がした。一室の扉というよりは、むしろ屋敷の玄関扉が立てるような重苦しい音だった。おそらく小さな子供の力では開けられないような扉に違いない。次に二人分の足音が聞こえた。一方はしっかりした足取りの、もう片方はそれよりも軽く響く足音だ。
扉の音に驚いたのか、子供が振り返る。初めて見せた動きらしい動きだった。その右目は空の蒼、左目は琥珀の様な黄金色をしていた。左右の目の色が違うだけでも珍しいのに、どちらもが鮮やかな貴石のような色をしている。面差し自体も幼いながらに整っていて、成長すればさぞかし見目良い若者になるのだろうと思わせた。幼子はきょとんとした表情で、小首を傾げている。
一人はもう大人に近い体格の青年だった。まだ表情にはわずかな子供らしさを残していたが、無表情に近い冷静な様が、外見の年齢を底上げしている。もう一人は打って変わって子供だった。最初から部屋にいた金髪の子供ほども幼くは無いが、背丈や顔立ちから、どれほど上に見積もっても十は越えていまいというところか。二人は面立ちが似ていた。言われずとも兄弟なのだろうと伺える程度だ。服装もよく似ている。デザイン自体は異なるものの、黒を基調に纏められた、そこかしこに精緻な縫い取りの装飾がされている長いローブを身につけていた。黒いローブの醸し出す厳粛は、青年の厳しげな雰囲気とはよく合っていたが、その弟らしき子供の幼さには少々不釣り合いであった。
二人は幼子の傍まで来ると歩みを止めた。アナイス、それはだあれ? 幼子が口を開いた。言葉の宛先は年長の青年だ。幼子は青年は知っていたが、もう一人の子供を見るのは初めてなのだった。青年が答えるよりも先に、その隣に居た子供は、知らない相手を見上げる幼子が滲ませている不安を少しでも和らげようと、自分も絨毯に腰を下ろして目線の高さを近づけ、にっこりと笑いかけた。色白な肌に、かすかに紅みがかった鳶色の髪と透き通るような紫の瞳が良く映える、可愛らしい子供だった。笑うと尚のこと、優しげな顔立ちが際立った。それにつられて、幼子もわずかに頬を緩める。
はじめまして、私はアナイスの弟で、ノイエリーフェと言います。柔らかい声で子供がゆっくりと話すのを、幼子は何か珍しいものでも聴くようにしてじっと耳を傾け、のいえりーへ? と、まだよく回らない舌で精一杯その名前を反芻した。言いにくいでしょう、ノイエでかまいませんよ、子供はそう言ってまた笑った。外見の幼さに比べて言葉遣いは少々大人びていた。お名前は? 彼はそう続けた。その瞬間、自分の背後に居た兄が、しまったと言わんばかりに身体を強ばらせたことに彼は気付かない。幼子は何故か困った様子で首を傾げ、数度の瞬きの後、こう答えた。
殿下。
それは名前ではない。敬称だ。子供は――ノイエは、一瞬、自分の耳を疑った。何か聞き違えたのだろうかとも思った。返す言葉がすぐには思い当たらず、ただ驚きの眼差しで彼は目の前の幼子を見詰めた。至って真面目な表情の幼子は、何かの冗談でそんな答えを返したのでもなさそうだ。
三つ四つの子供であれば、名前の意味くらいわかっている筈である。ましてこの幼子は見たところ利発そうで、名前と敬称の区別もつかないとは、到底思えなかった。お名前ですよ、と、問いを重ねようとしたノイエをアナイスが止め、そしてその耳元に口を寄せて何事かを囁く。ノイエはそれを聞くや、ほんのわずかな間、酷く悲しげな顔をした。だが、幼子がまた不安そうに眉根を寄せるのを見て、すぐに表情に笑みを戻した。
兄上、国王陛下には内緒にしておいてくださいね。後ろを振り向いて、幼子には聞こえない小さな声で言うのに、アナイスはかすかに首を縦に振る。その表情もまた、何処か翳った笑みだった。肯定を確かめて、ノイエはまた幼子の方を向いた。
それはお名前ではないのですよ。ノイエの言葉に、幼子は、でもぼくはいつもそうよばれてるよ? と返す。何気なしにそんなことを言うのが不憫でならない。名前を呼ばれない寂しさ自体に気付くことすらできなかった幼子の境涯が悲しかった。
あなたのお名前は、シャルス、です。
ゆっくり、ゆっくり、噛んで含めるように、ノイエは言った。
しゃるす?
貴石の瞳をきらきらとまたたかせて、幼子はノイエをじっと見詰めた。視線を正面から合わせたまま、ノイエは微笑んでみせた。それがぼくのなまえ? 尋ねてくるのに頷くと、幼子はくすぐったそうに何度かその名を繰り返した。最初は戸惑いが色濃かった表情に、嬉しさが混じり始める。そして幼子は笑って言った。
ぼくのなまえ、おしえてくれて、ありがとう。
その言葉を聞いて、年長者二人が何を思ったかを、幼子は知らない。愛らしい仕草で、ぺこりと小さくお辞儀までした。こみ上げる遣る瀬無さを振り切るように、ノイエは笑った。さあ、シャルス様、何をして遊びましょう? 言いながら座り直し、シャルスを抱き寄せて膝の上に載せる。小さなシャルスは驚きと期待に目を見開いた。
あそんでくれるの?
その言葉に、シャルスのこれまでの諦めが表れていると思うのは穿ちすぎか。子供であれば、遊ぼうと言えば真っ先に絵本が良いとかかくれんぼだとか鬼ごっこをしようとか、そういった類の自分がやりたいことが出てくるはずだ。それを、本当に遊んでくれるのかという問いかけで返す。おそらくは彼にとって、誰かに遊んでもらえることなど滅多とないからではないのか。その境遇に置かれて、今これだけ素直な子供に育っているのは、奇跡だったろう。
ええ。今日も、明日も明後日もその次もずっと、遊びにきますよ。
すぐ近くのノイエの顔を、シャルスはまじまじと覗き込む。大きな紫の瞳に自分の顔が映るのを眺めながら次第に言われた言葉の意味を理解し、そして満面に歓びそのものの笑みをこぼした。
はしゃぎ声を上げて、シャルスがノイエに抱きつく。相手は幼子とはいえ、ノイエもまた小さな子供である。その体重を受け止め損ねて後ろに倒れ込みそうになるのを、アナイスに支えられつつ、すんでの所で堪えた。シャルスは楽しげに笑っている。弾みで彼の持っていた人形が落ちた。
柔らかい布地で作られた手製と思しきうさぎの人形だった。酷く汚れていた。乱暴に扱ったのが見て取れるわけではない。彼らが部屋に入ってきたときも、シャルスは大事にその人形を抱えていた。振り回したり投げつけたりなどとんでもない。それなのにうさぎはどこもかしこも薄汚れ、糸がほつれて中綿がはみ出てしまっているところさえある。布地の元の色もわからない。蝶結びにされていたのだろう首のリボンはほどけてだらりと垂れ下がっていた。
ノイエは膝に落ちたそのうさぎを拾い上げた。それはかあさまなの。シャルスが言った。意味が飲み込めない彼に、シャルスは一生懸命言葉を探して説明を試みた。かあさまが、それをかあさまだと思ってねってくださったの。だからそれはかあさまなの。甘えたい盛りの幼い子供が口にするには余りに、シャルスの母親が存命であることを知っていれば尚更、悲しい言葉だった。
ノイエがうさぎの赤いリボンをきれいに結び直してやると、シャルスは殊の外喜んだ。まだ蝶結びができないシャルスには、ほどけたリボンを自分で直すことはできないのだ。練習してみましょうか。ノイエはそう言って、自分が身につけているブラウスの首もとから絹のリボンをほどいてしゅるりと引き抜いた。うさぎのリボンは細いサテンでつるつると滑って扱いづらい。幼い子供の練習には不向きと思ってのことだ。内ポケットから万年筆を出し、その軸に白いリボンをゆっくりと結んで見せる。シャルスはノイエの細い指がリボンを蝶の形に結ぶのを、まるで魔法か何かでも眺めるような眼差しで見詰めていた。
数度ほどいては結びを繰り返した後、さ、今度はシャルス様の番ですよと、リボンとペンを渡す。シャルスは柔らかい絹のリボンの扱いにしばらく迷っていたが、その内見様見真似でリボンを結び始めた。ノイエはたどたどしいその動作に口を出すではなく、じっと見ている。そして妙な結び方をしてしまったシャルスが困ると、その都度おかしな所を教えて助けてやるのだった。
やっとのことで出来上がったのは、いびつな形の蝶結びだった。輪の大きさは左右で違うしリボンの余りの部分も極端に片方が長い。幼児が初めて一人で結んだにしては、一応の蝶らしさを保っているだけまだ上出来だろうが、シャルスは泣きそうな顔をして、どうしてノイエみたいにうまくむすべないの、と、しょんぼり俯いた。私が初めて一人で結んだときは、もっと時間がかかりましたよ。練習すればシャルス様も上手になります。言って、ノイエはシャルスの頭を撫で、優しく笑った。しょげたシャルスの涙目も、緩やかに髪を梳かれている内に少しずつおさまった。そして、やっと顔を上げたシャルスに、ノイエは、明日はこの子をきれいにしてあげましょうね、洗い方を教えてもらってきますからね、と、うさぎを手渡した。
大事なうさぎがきれいになると聞いて、シャルスは大いに喜んだ。窓からの陽光が金髪にはぜて子供らしい笑顔を彩る。よれて古びたうさぎを抱きしめて嬉しげに笑うその無邪気が、二人には何よりも痛かった。
傾いた日が、帰り道を照らす。アナイスは小さな弟の手を引いて歩く。ノイエは手を引かれながら黙って半歩後ろをついて行く。
懐かれたものだな。アナイスは前を向いたまま呟いた。滅多に他の人間にあのうさぎを触らせたりはしないのだよ。苦笑混じりの言葉が、橙の光に溶けていく。道とは言えないような細い小径を、二人は静かに歩いた。
ノイエは泣いていた。声を上げず、嗚咽も無く、ただ後から後からこぼれる涙をそのままに、小さな手で拭うこともせず、短い草を踏み分けた足跡と共に道に落としながら、兄について歩いた。泣いているのに気付いているから、アナイスは弟の方に顔を向けずに話しているのだった。どんな言葉もその悲しみの慰めにはなりはしないことも、自分の弟がそれを望んではいないことも、彼は知っていた。
後十二年も。ぽつり呟いたかすかな涙声は、他には誰もいない淋しい道に、響くこともなく薄れて消えた。十二年。それは漫然と過ごせば、あるいは何かを成そうとすれば存外に短いが、ひたすらに待つには酷く長い年月だった。そしてそれが、あの幼子に課された、囚人のように過ごさねばならない日々の長さでもあった。
あのうさぎも、やっぱり元は白だったのですか。ノイエが尋ねた。そうだよ。ユリスファータ様のものと同じ布で作られているはずだ。アナイスが答えた。いつも持ち歩いているから、あんなに真っ黒になってしまったけれど。言葉を続けながら、アナイスはノイエの華奢な手を握る指に、ほんの少し、力を増した。
明日、学校が終わる頃にまた迎えにゆくよ。お前はまだ此処を一人で歩かせるには小さいからね。迷うといけない。私が行くまで、待っておいで。兄は穏やかに、放っておけば一人であの幼子の元へ飛んでいってしまいそうな弟に釘を刺した。弟はかすかに頷く。その弾みで、また一粒、頬から涙が落ちた。
二人は歩いた。これから先、幾度無く往き復ることになるだろう、常緑樹の隙間に続く道を、時折言葉を交わしながら淡々と踏みしめた。
彼らの往く家路にぬくもりが待つように、そうやって歩いた果てにあるものが幸せであることを、ただ、願いながら。