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臆病と勇気

WIZとマジとケミなお話 ケミさんが非常に漢らしいですがケミ受のつもりなんですよ…orz

 
 

「ああああああああああもう! 馬鹿! 馬鹿! この大馬鹿! ダメ馬鹿! 一体何回言ったら解るんだ!」
「馬鹿馬鹿言わないでくださいよ師匠! ほんとに馬鹿になった気分になるから!」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いこの馬鹿弟子! あの巨大芋虫にファイアウォール一発適当にかましただけでお前ごときが倒しきれるわけ無いって俺は今日だけで何回言った!? ええおい!! 言ってみろ!」
「うるさいなもう耳にタコができまくるほど聞いてます!」
 人の背丈ほどもあろうかという蟲どもが闊歩する台地のど真ん中、ひょろりとした魔術師と、それに輪を掛けて更にやせっぽちの見習いの二人の間には間断なく怒号が飛び交っている。女三人姦しいとはよく言ったものだが、それを遙かに上回る勢いの凄まじい口喧嘩である。そしてその周りには、壮絶な数の焦げ付いた芋虫やら潰れたカマキリの残骸が所狭しと転っている。紫やら黄色やら緑やら、見るからに気色の悪い原色の体液がしゅうしゅうと音を立てている様はさながら地獄絵図と言ったところか。
「…いつもながら飽きないな、こいつら」
 そこから少し離れたところで耳を塞ぎながら見物人を決め込んでいたもう一人が、横にちんまりと座っているバフォメットの子供に話しかけた。小さな魔物はこくこくと頷いてそれに答える。よくもまあ様々な蟲の体液の臭いがこれでもかと充満した中で、これだけ息もつかずに罵りあいつつ魔法を連発できるものだと、彼は盛大なため息をついた。
 彼は彼で、時折自分の方に流れ弾のように向かってくる蟲達を、魔術師達に負けず劣らず細っこい腕を振り回し、愛用のサーベルで一刀両断切り伏せてみたり、無造作に火炎瓶を放り投げて焚き火の材料にしたりと、なかなか過激な手段で撃退している。無言で相手を即時沈黙させるその様は、小さな魔物の喝采を浴びると共に、二人の熱い口喧嘩をほんの少しの間中断させたりもしているのだが、当の本人は一向にそれに気付く様子も無く、涼しい顔でまた二人の漫才じみた魔法特訓の見物に戻るのであった。要するに、この三人、ある意味似たもの同士ということかもしれない。
 それからもしばらくの間、二人は飽きもせず舌戦を繰り広げていたのだが、
「おい、そろそろ切り上げとけよ。体力限界だろうよ二人とも。帰って飯にすんぞ」
 双方いい加減息も上がり始めたのを見て取った見物人が、終了の号令をかけた。
 太陽は空の天辺を既に通り過ぎている。朝から今まで休み無しに魔法とその二倍以上の悪口雑言を放ち続けていた二人は、当然の如くいい加減にばて始めていた。
 が。
「何の、…ま…だ、まだやれ…」
「そー、です、よ…、これくら、い、平気…」
 変なところで根性があるというか、こんな時ばかり口を揃え、そのくせ疲れ具合まで揃いの二人に、お目付役は、にこやかに笑いながら足払いを連打で繰り出した。切れのある不意打ちに、二人とも見事にバランスを崩して倒れ伏す。
「もう一度だけ言うぞ、切り上げろ。それとも強制送還の方がいいか?」
 右手には鞘に収めたままのサーベル、左手には街に戻るための魔法の羽三枚を持ち、小さな悪魔を従えて、彼は柔らかいテノールながら迫力をこれでもかとみなぎらせた声で言い放った。
 笑ってはいる。表情は確かに笑ってはいるのだが、目は明らかに笑っていない。整った顔立ちをしているだけに、凄みのある笑顔に仕上がったその表情に、二人は今度こそ口をつぐみ、無言で頷いた。
 
 
「お、これ旨い、ノワ、また料理上達したなー、もご。で、大体お前はな、相手が迫って来た途端にパニックになるのがまずいんだってもぐ」
「このサンドイッチ美味しいです…むぐ。いやだから、あんな気色悪い生き物が目と鼻の先に居て焦らない師匠がおかしいんですってば」
「……お前ら、食うか喋るかどっちかにしとけ」
 街へ戻り、道沿いのベンチで遅い昼食に興じる魔法士二人の横で、げんなりした表情をあからさまに前面に押し出しつつ、ノワと呼ばれたアルケミストは、自分の膝に乗ったバフォメットの子供に蜂蜜をやった。ノワは愛称で、本名はシェノワという。その膝に鎮座しているリルケと名付けられた子バフォはシェノワによく懐いていて、どこへ行くのにもシェノワにくっついていきたがるし、シェノワもリルケをとても可愛がっている。ちなみにシェノワは、太陽がちょうど空の真上に来ていたころ、二人が芋虫台地にて脇目も振らず暴言合戦に興じている間にさっさと自分の分を食べてしまったので、今は飲み物と果物だけ口にしている。食事の邪魔をしようとした蟲達の末路は言うまでもない。
「俺は子供の頃、魔術師というのはもっと神秘的な存在だと信じていたんだがな…」
 夢破れたと言わんばかりの彼に、二人はいかにも憤慨したという風情で、
「がさつなのはこいつだけだろ」
「僕を師匠と一緒にしないでください」
 これまた二人声を揃えて互いを指さし、互いの行動に更に立腹してまた悪口の応酬を始める。それをしばらく眺めていたシェノワは、まさに諦めの境地と言うに相応しい顔つきで、可愛いペットの頭を撫でた。
「リィ、お前はこんなになるんじゃないぞ」
 気分良さげに主人の手にじゃれついていたリルケは、そう言われたこと自体心外だとでも言わんばかりに鼻を鳴らした。魔物にこうまでコケにされれば普通は人間いたくプライドを傷つけられるものだが、この二人に至っては、馬鹿にされたことさえ気付かずにお互い睨み合っているのである。シェノワは、回数を数えることさえ空しくなってきたため息を深く深く吐き出した。
 心に耳栓と呟きながら暫く彼は黙って聞いていたが、二人の口論は一向に終わりを告げない。家の中ならまだ良いが、あいにく此処は、表通りでは無く人通りも少なめといえ、屋外である。道行く者から投げかけられる視線の痛さに気付くのは、残念ながら本人達ではなく忍耐の二文字を脳裏に浮かべて耐えるシェノワただ一人。そんな状況に30分近くも耐えることを要求するのは、いささか酷というものだろう。
 人間堪忍袋の緒は永遠では無いのである。
 つまり、切れる。
 そして一般よりは図抜けて丈夫であると考えられるシェノワの堪忍袋の留め金も、通りすがりの友人から、今日も大変だなあとからかい半分慰められるに至って、ものの見事に吹っ飛んだ。
「おい、ヘイデン、頼むからいい加減その阿呆な口喧嘩を止めろ。それとも貴様そんなに幼馴染みの縁を切られたいか」
 額に青筋の二つ三つも浮かべていそうな声色と、マグカップにヒビでも入れかねない勢いで力の入った手のひらに気付き、先にご指名が来た年長の魔術師が口を閉じる。続いて師匠の様子に雰囲気のまずさを悟った弟子が黙った。
「ノイスト、君もだ。まともな魔術師になりたいなら、こんな馬鹿の真似なんぞ一切しなくていい。むしろするな。わかったな?」
 師匠よりも遙かに有無を言わさぬ威圧感に満ちたシェノワの声に、ノイストと呼ばれたまだ子供のマジシャンは、冷や汗を流しながら何度もぶんぶんと頷く。その様を見ながら、何故かリルケまでもが満足そうに首を縦に振った。どうやら自分の主人が滅法強いのが嬉しいらしい。人間の面目は見事に丸潰れであった。
 と、ここで、楽しいはずの昼食の席に漂い始めた切なくも阿呆くさい微妙な空気をどうにか打破しようという目論見か、ヘイデンがごほんとひとつ咳払いをした。自分が原因の一端を大きく担っていることはこの際忘れる。心に耳栓はシェノワより遙かに上手なヘイデンである。だからこその阿呆な行動とも言える。
「まあ、ノイスト、真面目な話さ。あれじゃあ、まずいだろ」
 さっきまでの軽い口調とは打って変わった真剣さでもって、ヘイデンはノイストのほうをじっと見据えた。
「お前の魔法は、攻撃力の点ではこのまま修行してりゃ、ほぼ申し分無くなる。だけど威力でゴリ押すにしたってな、限度がある。毎日夜中まで勉強してるんだ、知ってるだろ?」
 ノイストは反論しなかった。うつむき気味で黙っているノイストに、ヘイデンは、一度言葉を切った後、さらに続けた。
「あの蟲共くらいならな、別にいいんだ。俺と同じくらいの威力になれば、どいつもこいつも壁一枚で焼き殺せる。詠唱だって修行次第でこれからどんどん短くしていける、そうなれば適当に一枚かましたところにボルト一発叩き込んで終わりだ」
 シェノワは何も言わずに紅茶を飲んでいた。行儀作法に関してはヘイデンを割れた薬瓶よりも軽視する彼だが、こと魔法云々の話になると、ヘイデンの言うことに全く口出しをしない。リルケも飼い主を見習い大人しくしている。
「だけどお前が行きたいって場所の奴らはそんなに甘くない。グラストヘイムには、一瞬でファイヤウォールなんざぶち抜いてくるのもいるぞ。逃げる暇があれば良い方だ。破られづらい向きに上手く巻き込まなけりゃ倒せない。そういうのが集団で来たら、目的達成するよりも先にお前が死体になっちまうよ。文字通り瞬殺」
 そこまで言って、ヘイデンはため息をついた。
「俺は、あんまりキツいこと言うのは好きじゃあないが。死ぬってわかってるものをみすみす放り出せるほど図太くもないんだ。…それがお前にとって良いことなのか悪いことなのかはわからないが」
 ノイストは顔を上げなかった。ヘイデンがどんな顔をしているのか、ノイストは知っていた。その顔を見るのが、彼は一番嫌いだった。怒っている方が、まだマシだった。自分の師が心底困った表情で言葉を探しているのを見ていると、いたたまれなくなる。普段滅多とそんな顔を見せないヘイデンがそうやって弱り果てるのは自分のせいであることを無視してしまえるほども、彼は厚顔ではない。ヘイデンが、弟子の未熟を解っていながら適当に資格を認定して終わりにしてしまえるような人間ではないのと同様に。
「お前は、敵の前で冷静でいられるほうがおかしいと言う。それを間違ってるとは、俺は思わない。だけど、そうやって無理だって言い続けたところで、いつまでたってもどうにもならないってことも、お前はもうわかってるはずだ」
 
 
 若干重くなった空気とは裏腹に旨いことに変わり無い昼食が終わった後、痩せの大食いを見事に体現して食後のお菓子まできっちり平らげたヘイデンは、騎士団に用事があると席を外していた。すぐに戻ると言い残していたので、シェノワとノイストは午後のお茶を続行しながらのんびりと彼が帰るのを待っている最中だった。
 春の日差しが明るい。鬼ごっこに興じる子供達の歓声と、彼らが石畳を踏み鳴らす音が響き渡る広場には、他に数人の大人達がゆっくりと午後を過ごしていた。この近くにあるシェノワの薬の店は、最近は二人の練習に付き合っているために不定期開店になっていたが、安いし良く効くと評判で、馴染みの客もいる。そういう顔見知りが通りかかって会釈をよこすのに、シェノワはにっこり笑って挨拶を返した。その横でノイストは、時折シェノワの入れてくれた茶を飲みながら、自分の手元をじっと見つめては考え込んでいた。
「…シェノワさん」
「ん?」
 唐突に声をかけられて、シェノワは囓りかけのクッキーを落としそうになりながらノイストの方に顔を向けた。
「お前、ノワで良いっつってんのに、まだそう呼ぶのな。どうした?」
「僕には無理なんでしょうか」
 ノイストは、何が、とは言わなかった。しかし言うまでもなく、何を指しているのかは明白だった。
 見習いでも、魔法の威力は結構なものである。攻撃手段としては、剣や弓を遙かに上回る威力を叩き出す。だがそれと反比例するかのように、身体能力としてはお粗末を極める。身体を鍛えるための時間も全て費やして魔法の修練に励むのだから当然だ。一撃食らえば致命傷。それが伊達や酔狂ではなく冗談でもない。それが魔術師というものだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そのひ弱な身体で敵に相対するというのは肝試しに近い。練習とはいえいざ実践するに至って、想像以上にそれは恐怖だった。
 ノイストは首都から離れた、国境からも遠い村の出身である。老衰で大往生やらたまに病気で命を落とす者やらは目にしてきたが、国をかけての戦やら魔物との戦闘とは全く無縁の生活を送ってきた。死を覚悟するほどの傷を負うなどという事態は、針の先ほどの実感も無かった。それがいきなり眼前に、自分の身に迫るものとして現れてきたのである。
 恐ろしかった。足が竦んだ。動けなかった。初めて魔物に対峙したのは、自分の村から首都へと旅する途中だった。危険だから避けろと言われた森へ迷いこんだ。偶然通りかかったヘイデンとシェノワが咄嗟に間に入っていなければ、今自分はここに居たかも怪しい。あの、木によく似た姿をした何かが自分に向かって伸ばした手の鮮やかな赤が、目に焼き付いている。その手は自分に触れる前にシェノワに切り飛ばされ、手の持ち主だったものはヘイデンの氷結魔法で砕け散ったのだが、瞼に残るのは襲いかかって来たときの姿だ。
 ノイストは、ローブを被った膝頭をぎゅっと掴んで唇を噛んだ。
 師匠であるヘイデンは、事ある毎にシェノワに大目玉を食らって情けない姿を晒し、あまつさえリルケにすら軽くあしらわれているような有様だが、こと戦闘に関しては首都でもそうは居ない程だった。お前は優秀な師匠でいいよなと、見習い仲間からいつも羨ましがられるのだ。そんな師匠に付きながら、日々これといった進歩もせずに過ごしている自分は、どうしようもなく無様だと思った。
 言葉無く俯くノイストに、シェノワは困ったような視線を向けたあと、自分が手にしていたカップを置いて、ぽん、とノイストの頭を軽く叩いた。
「まあ何だ、ヘイデンの言うことは至極最もなんだけどな。お前はまだ見習いなんだし、年も若いっていうかまだどっちかいうと子供だし、そりゃああんな馬鹿でかい蟲なぞ前に平然と戦えなくったって、仕方ないだろう」
 顔を上げたノイストの視線の先で、シェノワは笑っていた。ヘイデンをからかうときの大笑いとは似ても似付かない、穏やかで優しい笑みだった。
「見習いってのは、文字通り師匠を見て習うのさ。あの馬鹿を師匠と仰がなければならんお前の不運は至極同情に値するが、それは諦めろ。どうしても嫌なら誰かもっと良いのを探してきてやるが。うちの店の客にも腕の立つ奴はいるぞ」
 とても冗談とは思えない口調であっさりとヘイデンをこき下ろすのに、思わず吹き出したノイストを見て、シェノワはまた笑った。
「まあ、あれは馬鹿だが、魔術は一級だ。目を皿のようにして見て学べ。どうすれば目の前の敵を倒せるか。自分は何をするべきか。わかってなくて動けないのは問題外だし、わかってても動けないのなら後は修練だ。お前は無駄死にも、仲間を無駄に死なせるのも、嫌だろう?」
 真面目ではあるが優しい声に、ノイストは鼻の奥が痛むのを感じだ。息を吸い込んだ拍子に、ぐす、と鳴ったのが気恥ずかしく、頬に血が上るのがわかった。けれどシェノワは多分それには気付かない振りで、もう一度ぽんぽんと頭を撫でた。
「誰でも最初は怖いのさ。何をやったら良いのかわからなければ、足だって竦む。あいつだってそりゃあ酷いもんだったぞ」
 くっくっと含み笑いをこぼしながら、シェノワはノイストの頭から手を退けた。
「すぐにのされるあいつを見かねて、俺がひたすら盾になって魔法の練習に付き合ってやったんだ、いくら感謝されても足りないね。今じゃ首都屈指とか言われてるが、見習い時代を嫌ってほど見てる俺には笑えてしょうがない」
 シェノワの膝で、リルケも笑っている。あまりといえばあまりの言いよう、知らない人間は酷いと言いそうなものだが、いつも二人を見ているノイストには、シェノワのそれが、悪意を含んでいるようには思えない。どれだけ悪態を付いても彼はいつもヘイデンに付き合うし、彼の本気を笑うことはしない。そもそもシェノワは心底馬鹿にしている相手のやることに付き合うような人間か。それは絶対有り得ない。つまりは、長い付き合いがゆえの気安さであって、ノイストには、時折それが無性にうらやましく思えるのだ。
「お前も強くなれるよ。そうなりたいと思っているのなら。どうしても自分一人で目の前に立つのが怖ければ、あいつのときみたいに俺が付き合ってやるから、頑張りな。いつか守りたい奴ができたときに、そのための力が無いって後悔なんてしたくないだろう?」
 膝の上に飽きたのか肩によじ登ろうとするリルケの背中を軽く支えてやりながら、シェノワは真面目な、けれどやっぱり優しい顔で、ゆっくりと言葉を繋いだ。何か声を出したら泣いてしまいそうで、ノイストは小さく頷いて、長い息を吐いた。
 広場に満ちる春先の日差しが暖かい。
 少し視線を上げてシェノワを見る。カップ片手に通りすがりの得意客に挨拶を返していた彼は、ややあってその視線に気づいて笑った。少し、胸が痛んだ。
 自分や師匠はしょっちゅう彼の堪忍袋の緒をぶった切り、事ある毎に壮絶に怒鳴られているのだが、結局のところ彼は優しい。怒られているときにはその威圧感に心底震え上がっていても、たとえば今のような、ふいと見せる優しさに心が緩む。こっちが落ち込んでいるときには、暖かい茶を入れてくれたり、黙って傍に居てくれたり、あるいはそっと一人にしてくれたり。自分もそういう人間になれたらと、あるいは堪忍袋の緒を切るよりは、彼を笑わせる側に回りたいと、時折ノイストは思うのだった。
 しばらくは沈黙が続いていたが、ややあって、ノイストが口を開いた。
「シェノワさんはやっぱり相当鍛えてるんですか? 僕らは魔物に襲いかかられたら一巻の終わりなのに、あなたは平気で傍に寄っていきますよね」
「ん? ああ、まあ、俺は避けるのが得意だからな。あまり大量にまとめて来られるとどうにもならないが…。そういうときは三十六計逃げるにしかずだ。上手く引っ張り回して後はヘイデンにまかせる」
 大魔法は広範囲をあっさり蹴散らせるのが良いよな、と、シェノワは茶を口にしつつ暢気な口調で言った。そして、避けるのは良いんだがあまり力が無いものだから丈夫な相手はなかなか困るんだよ、と笑って付け加えた。
「でも、ナイフ一本まともに扱えない僕から見れば、雲泥というか、本当に雲の上の人みたいっていうか…」
 先ほど芋虫台地で瞬間芸と言っても差し支えない鮮やかさで蟲達を一掃していた手際を思い出し、ついでに帰還前に向けられた殺気の記憶も蘇って若干背筋に寒気を覚えつつ、ノイストは呟く。ヘイデンも、シェノワも、自分とは比べものにならないほど、強い。見習いの自分と独り立ちした彼らを比べること自体間違っていると言えばそれまでだが、自分がいつかそこまで到達できるかと自問すると、出てくる自答は無理の二文字に他ならなかった。二人に怖いものなどあるのだろうか。彼らの戦い振りを見るに付け、そんな疑問が沸いてくる。
「おいおい、俺たちだって自分の師匠にまだまだ追いついてな…」
 笑って言おうとしたシェノワの声が、甲高い悲鳴で遮られた。昼下がりの広場にふさわしいとは到底言い難いそれが聞こえてきた方へ、二人は弾かれたように振り向いた。数人の住民が、血相を変えて逃げてくる。尋常ではないその様子に、喧嘩騒ぎやスリといった日常茶飯事のもめ事以上のものを感じ、一瞬後に、それが正しかったことを彼らは知った。
 逃げる人々を追うように、路地から出てきたのは黒い馬を従えた騎士だった。しかしそれは一見して、人ではないと知れるような威圧と恐怖を漂わせていた。纏っているのは黒装束というよりは闇そのもの、そして人では有り得ない瘴気とでも言うべき濃い違和感。二人はそれを書物で知ってはいたが、相対するのは初めてだった。深淵の騎士、と呼ばれるものであった。かつては人だった騎士が、ある者は魔にとらわれ、またある者は深い恨みを抱き、ついには人としての名を忘れ、肉体を変じ、闇と同化して成った魔物だと言われていた。
「あれは、…あれが、なんで、こんな、とこ、に」
 震える声で、ノイストが呟く。あれは闇に沈んだ古城の廃墟を徘徊し、果てるところを知らず見境無く命持つものに襲いかかる魔物だ。こんな街中に現れるようなものではない。同時に、生き物で溢れる街に現れれば大惨事は免れないものであることは、ノイストにも容易に想像が付いた。
「…誰か、もう襲われた」
 シェノワの声に、半ば合わなくなっていた焦点がもう一度魔物に合わさる。手にした巨大な剣の刀身に、言われてみれば血糊が伺えた。黒光りする刃の血は一見してそれとわかるものではなかったが、よくよく見てみれば濡れて光っている部分があった。少し視線をずらすと、魔物が出てきた路地に、倒れている人影が見えた。
 周りを逃げる人々は、皆戦闘の心得が無い者ばかりだった。冒険者達が集まる露店広場から少し離れたここは、首都で暮らす住人ばかりが多い。それも町外れで、人通り自体多い方では無い。ぐるり見渡しても、戦闘用の装備を携えた人間は自分たちだけだった。
 他に連携を取れそうな相手が居ないと見て取るや、シェノワは即座に動いた。腰に提げた剣を引き抜くと同時に、器用に片手でベルトに固定してあった小瓶を外して離れた場所の黒い騎士に向かってあやまたず投げつける。瓶が鎧に当たって砕け、中身の酸が耳障りな音を立てながら黒い闇をわずかに溶かした。つまづいて転んだ小さな子供に向かって剣を振り上げていた魔物の視線の向く先が、ゆっくりとシェノワに変わる。
 一歩踏み出したシェノワの背中を、ノイストは見ていた。むしろ背中を見ているしか無かったというのが正しい。足が動かなかった。戦えるのは自分たちしか居ない。自分たちが動かなければ、ここにいる人たちは、皆確実に殺される。知らせを聞いた騎士団員が駆けつけてくるよりも先に、何人が手遅れになるだろう。わかっているのに、動けない。
 膝が震えた。膝と言わず、全身ががくがくと震えていた。騎士が一歩こちらに向かうごとに、威圧感が増す。先ほどの蟲たちなど比較にならない重圧に、立っているのがやっとだった。動け、動けよ、動けったら。その叫びさえ、声にはならず、腹の底の方へ落ちていくのみだ。杖さえ落としてしまいそうなノイストに、剣を携えたシェノワは言った。
「ノイスト、俺がここであいつの気を引いている間に、全速力でヘイデンを呼んでこい。多分もう騎士団を出たろうから、行く途中の道で会えるはずだ。もし会えなけりゃそのまま騎士団まで突っ走れ」
 ノイストは目を見開いた。確かに自分が居たとして、何の助けにもならなかろう。しかし彼は、一人であれを食い止めるというのか。声も出せずに無言で首を横に振るノイストを知ってか知らずか、振り向きもせず前を見据えたままのシェノワは、凛とした声で続けた。
「走れ。早く! 俺が持ち堪えられる間に、戦える奴を連れてくるんだ」
 でないと増援が来る前に、ここにいる何人が死ぬと思ってる、そうシェノワは言った。
 でも、シェノワさんは。
 やっとのことでそれだけ口にしたノイストに、シェノワは、騎士団の司祭共は優秀だ、少々怪我したところで綺麗さっぱり治してくれるさと、だからお前は早く呼びに行けと、何でもないような口調で返した。
 それは確かに尤もな話なのだった。およそ魔物など目にしたことがない者が大半だろうこの場の人々は、めくら滅法逃げ回るか、腰を抜かしてへたり込むのみで、助けを呼びに行く様子は無かった。足が竦んで何の足しにもならない自分がここに止まるよりは、のんびりとこちらに帰ってきているだろうヘイデンを連れてくるほうが役に立つに決まっている。
 どうにか心を奮い立たせ、相も変わらず震えの止まらない膝を叩き、何とかきびすを返して一歩踏み出した、そのとき。小さな鳴き声が初めて耳に届いた。
 まだ言葉を覚えていないリルケの鳴き声だった。それはいつもの楽しげなものではなかった。リルケの姿を探す。魔物の子供は、半歩たりと引かずに黒い騎士を見据える自分の飼い主の足下で、長い外套の裾を一生懸命引っ張っていた。普段ならば主人の勝利を疑わずはしゃいでいるのみのリルケが、まるで、逃げろとでも、言うように。
 ああ、と、ノイストは恐怖に鈍った頭が透るのを感じた。
 シェノワは、自分に、お前は逃げろと言ってくれたのだ。ただ逃げろと言われただけでは動けない半端な自分のプライドの為に、尤もな理由まで用意して。シェノワ自身があの魔物に到底かなわないであろうことも、自分がヘイデンを呼んでくるまでおそらく保たないだろうことも、本当ならば自分の使う炎の術のほうが、遙かに有効であるとも知った上で、一人足止めに残ると。
 きっと、リルケにはわかっているのに違いない。黒い騎士は歴然とシェノワに勝っていて、退かなければシェノワは怪我どころでは済まないと、はっきり言えば、死ぬのだ、と。
 身体ごと、振り返る。真っ直ぐに騎士に向き合う彼を改めて見た。その膝は、自分と大差ない細い腕は、かすかに、ほんのわずかに震えていた。
 唇を噛んだ。
 怖いから、向かえなくて当然だと、言った自分の浅はかを知る。
 怖ろしくないはずが、無い。
 それでも尚、自分の弱気をねじ伏せて、恐怖の対象である相手にさえ彼は相対するのだ。守りたいと思うもののために。
 今言われたままにヘイデンを呼びにゆけば、自分は助かる。そうしてシェノワには二度と会えないかもしれない。
 それで良いのか。
 息を吸い、ゆっくりと吐いた。
 シェノワは、自身がどうやってもあの騎士にはかなわないと誰よりもよく理解していながら退かなかった。ならば、教わった通りに動くことができたなら、傷など負わずに済むはずの自分は。自分が手にしているのは何のための魔術か。使うべきときはいつか。今使えない自分が、いつ使う?
 
 守りたい奴ができたときに、後悔なんてしたくないだろ。
 
 シェノワの優しい声が記憶で鼓膜を震わせた。
 自分が守りたいものは、何だ。
 ぎゅ、と手のひらを握りしめ、ノイストは石畳を蹴った。唱え慣れた呪文を詠唱しながら、シェノワよりも前に飛び出し、至近距離に迫った騎士の剣の切っ先から間一髪、彼を後ろに突き飛ばす。背中から、驚いたシェノワに大声で名を呼ばれるのがノイストの耳に届いた。そう言えば、自分がシェノワの背中を見ていることはあっても、背に彼をかばったことなんて無かったと思い返す。まだまだ自分の方がひよっこなのに生意気だろうなとか、こんな魔物を相手にするなんて無謀だと、他人事のように考えながら。
「ファイアウォール!」
 今まで口にしてきたどんな言葉よりも強く叫んだその声に応じて、眼前、自分と騎士との狭い隙間に炎の壁が現れた。
 燃えさかる炎に弾かれた魔物が、その矛先を自分の方に向けたのがわかる。ノイストの魔力を寄り代に具現した炎は彼自身や彼が仲間と認識する相手には何の害も無い。間近で音を立てる炎に欠片の熱さも感じないのがいつも不思議な気がしていた。
 壁を抜けて来られる場所へ誘ってしまわないように位置取りをしながら、様子を伺う。騎士の動き自体はかなり遅かった。焦るな、よく見ろ、そう言い聞かせながら次の術の詠唱に入った、そのとき。
「近づきすぎだ、下がれ、ノイスト!」
 シェノワの悲鳴のような叫び声が聞こえた。
 同時に、馬上の騎士が薙いだ剣先が、自分の胴を斜めに抉るのがわかった。刀身の長さは見てはいたが、柄の部分が想像以上に長かった。槍のように持ち替えたのか。届いたのは先の部分だけだったが、まるで間近から袈裟懸けにされたような派手な傷が開く。それが酷くゆっくりと視界に映るのが気味悪い。
 血が飛び散るのが見えた。ぼたぼたと流れ落ちた血で地面に真っ赤な染みが広がり、温度が抜けていくのがわかる。喉の奥に、錆の味がせり上がる。頭の後ろの方がどこかに吸い込まれていくような感覚を覚えた。視界がくらむ。駄目だ。気を失うわけにはいかない。ノイストは、ぎ、と歯を食いしばり、前を見た。自分の意識が途切れたら、魔力で具現している炎は効果を無くす。そうしたらこの魔物は炎を抜けて、次にはシェノワに襲いかかる。
 ふらつく膝を必死で支え、へたりそうになるのを堪えながら、完成しかけていた詠唱の最後を何とか声にすると、口からも血が飛んだ。ふたつめの壁が凄まじい音を立てて燃え上がるや、ローブを掴まれ後ろに引き寄せられる。力無く倒れ込んだ身体を抱き留めたシェノワの手が傷を押さえ止血をするのが、判然としない視界に何故かはっきりと見えた。生成り色の彼の手袋が一瞬で真っ赤に変わる。生きるか死ぬかという瀬戸際に彼の手袋がどうしてだか妙に気がかりで、汚れますと、口にしてみても、ひゅうひゅうと息が漏れたような音にしかならない。この馬鹿、俺の服なんて気にしている場合かと言う彼の声が、不安と焦燥を滲ませていた。怒るところは見慣れていても、狼狽える様なんて、自分は初めて見たなあと、傷の痛みよりもそんなことばかりが意識に登る。ああ、何で自分で聞いていてもまともに言葉に思えないのに、彼は何言ってるかわかるんだろうなあと首をかしげるノイストは、シェノワがどうにか唇の動きを読んだのだとは思いも寄らない。それだけ思考が鈍っているのだ。
 大丈夫、師匠が来るまで、絶対こっちに通したり、しません。だから。
 安心させようと言葉を選ぶ。シェノワが自分にしてくれたように。けれどシェノワは今にも泣き出しそうな顔で、首を横に振った。喋るな。喋らなくて良い。手当てするから、頼むからもう喋るな。そう繰り返しながら、応急処置をしていく。
 駄目だなあ。薄れる意識の中で、ノイストは思った。守りたかったのに、やっぱり自分が守られてる。今自分が術を制御できなくなったら、次に襲われるのはシェノワだ。なのに彼は、逃げてはくれない。自分の命を、必死で繋ぎ止めようとしてくれている。
 聞き覚えのある声がした。自分のよりも遙かに高く厚い炎が、消えかけている自分の炎に重なるのがわかった。師匠が来た。
 もう、シェノワは助かる。自分がいなくても。
 それを理解すると同時に、すうっと力が抜けた。
 二人に名前を呼ばれているのが、意識が途切れる最後の瞬間まで、ノイストには聞こえていた。また目を覚ますことができたなら、今度はもっと上手く守れるように、強くなりたい。痛みよりも何よりも、悔しさ混じりのその決心が、強く心に残った。
 
 
 目を開けたら、見慣れない天井があった。
 あれ、昨日って自分のベッドで寝たはずなのに。戸惑いつつも身体を起こそうとした瞬間、壮絶な激痛が右肩から左脇にかけて走り、息が止まった。勿論起きあがれる筈もなく、少し持ち上がった背中は即座にベッドに逆戻りした。叫び声すら上げる余裕のない痛みというのは生まれて初めてのことだった。何だ、何があったんだ。混乱しつつもそろそろと首を動かしてみると、すぐ傍に、人の頭があった。
 やわらかい栗色の髪がかすかにこちらに触れていて、それがどうにもくすぐったかった。その髪の色にはよく覚えがある。そして、自分の枕元で突っ伏して眠っているらしき彼の肩でこれまた熟睡している、小さな魔物の子供にも。
 シェノワが細い寝息を立てていた。時折椅子でうたた寝などしていても、傍をヘイデンやら自分が通ればすぐに目を覚ます彼が、こちらの動く気配など知るよしもなく、眠り続けている。相当眠いのだろうか。そもそもどうしてこんなところに。考えているうちに、自分の胴に走った傷は、動かなくても十分痛むということに薄々気付き始める。さらには何故自分がそんな傷を負うに至ったのかも思い出す。
「お、目を覚ましたか」
 と、少し離れた場所から声が降ってきた。これもノイストにはよくよく覚えがある声だった。ヘイデンが氷の塊を持って扉のところに立っている。
「…師匠」
「お前、よくもまああんな無茶したもんだな…。俺は見た瞬間心臓が止まるかと思った。シェノワが居たことに感謝しろよ。こいつの手当てが無かったら司祭の治癒魔法も間に合ってないぞ」
 盛大なため息をつきながら、ヘイデンはそっと扉を閉めた。話し声も小さい。それはひとつには怪我人を気遣ってのことであり、もうひとつには怪我人に夜を徹して付き添った挙げ句眠ってしまった看病人を慮ってだった。
「あの魔物は、どうなりましたか?」
「おお、跡形も無く焼いておいた。安心しろ。あと、最初に襲われて倒れていた数人も、皆何とか命を取り留めたぞ。あんなものが街中に出現した割りに被害が少なく済んだと騎士団の奴らが驚いてた」
 ヘイデンは腰の短剣を抜いて氷を削り取っている。普通ならば砕くところだろうが魔導士のくせに何故か刃物の扱いが上手い。彼が、おそらくは術で作り出したのだろう氷塊を器用に削り、自分の額に載せられた氷嚢に入れるのを、ノイストは黙って見ていた。
「もう教えたんだったか、古木の枝っつってな、魔物を召還するような魔具があるんだよ。普通なら俺たちは一般人には売らないし、人通りのあるところで使うような代物でもないから、あんなことは起こらないんだが」
 苦虫をまとめて噛み潰したような仏頂面でヘイデンは呟いた。
 最初に襲われた人がノイストよりも先に意識を回復していて話したところによると、建物の隙間に青い光が見えたような気がして覗きに行ったらあれが居て、叫ぶ間もなく切られたということだった。青い光というのは転移魔法を使ったときに出るものだ。おそらく誰かが古木の枝を使い、現れた魔物をそのままにして転送で逃げたのだろうと騎士団では結論づけたそうだ。
「あれを使ったタチの悪い悪戯というか、もう犯罪の域なんだが、街中で魔物を呼びまくった挙げ句自分は逃げるような奴で、まだ捕まってないのが居るんだよ。その手の罪状で手配されてる奴に似たのを見た気がして、騎士団に人相書きを見に行ってたんだが、これは多分当たりだったな」
 お前たちを残していって良かったのだか、悪かったのだか。またヘイデンが長いため息を吐くので、ノイストは少し笑った。
 僕たちが残っていなかったら、もっと沢山襲われていたかもしれませんよ。
 ノイストが言うのを聞いて、ヘイデンは驚いたようにかすかに目を見開き、微妙な表情を浮かべた。笑っているとも、怒っているとも取れるような表情だった。
「お前からそんな台詞が聞けるってのは、仮にも師匠としては喜ばしいことなんだろうが。…俺は、お前やノワが、もしも殺されていたら、一生後悔したよ」
 ヘイデンがシェノワの隣の椅子に腰を下ろした。視線が近くなる。
「お前にもさっき、無茶しやがってと言ったが、無茶ってならこいつの方が無茶だったな。リィやら周りの見てた奴らから聞いて、俺は血の気が引いた」
 シェノワの髪を、ヘイデンが撫でた。同時に自分のほうに少し流れてきていた髪も退けられる。ヘイデンは純粋にノイストを気遣ってそうしたのだし、首筋に感じていたくすぐったさは無くなったが、ノイストにはそれがどこか残念に思えた。
「身のこなしなら騎士団随一って奴だって、深淵の騎士の攻撃をかわし続けるのは無理だし、じゃあこいつがあれの一撃に耐えられるかってと、そんなことあるはずない。こいつ、本気で死ぬ覚悟で向かっていったんだよ」
 こいつはお前には言うなって釘刺してきたけどな、と、ヘイデンは小さな声で付け加えた。ああやっぱり、あのとき自分が感じたことは正しかったのだと、ノイストは確信する。
「お前が目を覚ましたら、言おうと思ってたことがあるよ」
 そこでやっと、ヘイデンは笑った。
「ノワを守ってくれて、ありがとう。…お前がいなきゃ、ノワも、他の皆も、死んでいたかもしれない。ありがとう。それから、お前もちゃんと生き残ってくれて、ありがとう、本当に」
 心底の安堵を滲ませた声で言われて涙がこみ上げてくるのは、今までのような悔しさとか、焦燥とか、不安とか、いたたまれなさとか、そういうものに押されてではないことに、ノイストは気付く。嬉しかった。守りたいと思った相手を、守れたのだと、認めてもらえたことが。そして、守れた相手も、認めてくれた人も、自分の憧れる人間であることが、嬉しかった。
 ノワが寝ないでついていたんだぞ。ついさっきぱったり寝ちまったが、こいつも倒れるんじゃないかと俺は心配だった。お前一週間丸ごと寝てたんだからな。本当に安心したと言わんばかりに、ヘイデンは肩の力を抜いた。
「まあ、傷が治るまでは修行も休みだし、この際ゆっくりしてろ。というか俺は預かった弟子に怪我をさせて、お前の実家にどう顔向けしていいやらわからん。怖ろしい」
 彼は困った顔で、氷の次は果物にナイフを入れている。シェノワと違って彼の料理の腕は惨憺たるものというか不毛というか、およそ人の食べるものは台所から出てはこないのだが、先ほども言ったとおり刃物の扱いは得手である。しゅるしゅると林檎の皮が薄く剥かれていくのを、ノイストは眺めていた。
 ヘイデンがシェノワに向ける表情は、いつも優しい。そして逆もしかりだ。二人は長い付き合いだとは知っているが、いつからだと、言っていたか。長かったから深まった付き合いというのでもなかろうが。
 さて、会ってからの時間で勝てるはずもない自分はどうしよう。そんなことを考える。そして考えた自分に少し笑う。
 守られるよりは守りたいのだと、あるいは背にかばわれるのではなく、同じく横に並びたいと、あのとき確かに思った理由は探すまでもなく。
「師匠―」
「何だ不肖の弟子」
「ノワさんって優しいですよね」
「言葉はえげつないがな。口さえ開かなきゃってこいつの店の常連客連中でももっぱらの…って、お前、その呼び方してたっけか?」
 手にした林檎に最後一周分の皮を残したところでナイフが止まる。
 にっこりというよりは、幾分にやりという風情で、ノイストは笑った。それは彼にしては珍しい表情だった。何か不穏なものを感じ取ったのか、ヘイデンが口を開きかけたところで、そこまで不規則に時折寝返りを打つようにもぞもぞと動くだけだったシェノワが、唐突かつ勢いよくがばっと身体を起こした。寝ぼけ眼であたりを見回して、すぐにノイストが目を開けているのに気付く。が、何故お前はこのタイミングで起きるんだという声にならない叫びに充ち満ちたヘイデンの喉の奥で行き場を無くしたノイストへの疑問など無論知る由もない。まさか当人が聞いているところでお前もしかしてこいつのこと好きなのと、真っ向尋ねられるわけもなく。あるいは目が覚めているのに気付かず聞いてしまわなかっただけマシと思えばいいのだろうか。ヘイデンは頭を抱えたい気分で、しかし林檎とナイフを手にしたままではそれもできず、ただ固まった。
「ああ、よかった、目を覚ましたか! 傷はどうだ、痛むか、ていうか痛むだろうどう考えても。痛み止めを作ってあるから酷いときは使え。しばらくは絶対安静だこの馬鹿。何か必要なものがあったら俺かこいつに言え、お前はとにかく動くな。いいか、動くなよ。勝手に起きて歩き回ってるの見たらベッドに縛り付けるからな!!」
 そんなヘイデンの様子など何処吹く風、物凄い勢いでまくしたてるシェノワに、面食らったノイストは一瞬目を見開き、そして溶けるように笑った。ヘイデンについ先ほど見せた含み笑いとは似ても似つかない柔らかい笑顔だった。シェノワは一息に長台詞を言い切った後、肩から力を抜いて、頼むからもう、あんな無茶はしてくれるなと呟いた。少し目の下に隈のできたシェノワが浮かべる表情が、安堵と自分への気遣いであることが、たまらなく嬉しかった。そして同時に、無茶はあなたのほうじゃあ無いですかと出かかった言葉をすんでで押しとどめる。それは自分が傷など負わずに彼を守れるようになってから言えばいい。
 なるほど、二人の付き合いは自分より遙かに長いけれど。割って入る隙間など、無いのかもしれないけれど。とりあえず、諦めるのは挑んでからでも遅くない。
 十分な睡眠がとれたわけでもないのにまたノイストの世話にかかろうとするシェノワの背後で、ヘイデンが至極微妙な表情をしている。シェノワの視線が自分から外れているときに、ノイストはもう一度ヘイデンに向かって笑って見せた。それでますますヘイデンは眉間の皺を深くした。
 まあでも、ある意味自業自得ですよと、心中呟いてノイストは尚笑う。
 
 何だって、無理だからで終わらせてしまうものじゃないと、
 ――臆病者だった自分に再三教えたのは他でもない、師匠なのだから。

 
 
 
 
 
 
 

うちのサイトにしては珍しく明るい感じの話ですn(自分でいうな
もしかしたら続くかも

 
June 8, 2006
 
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